心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

そんな事どちらでも良いが楽チン

思い通りの心と、思い通りの心を合わせて、合掌すると、相対的な思い通りにしよう。。という  心が相殺されて、消えます。それが、手を合わす事。。祈りです。

祈りとは、お願い事だと勘違いしてる人が多いのですが、むしろ逆で、自分のお願い事とお願い事を手を合わせて、相殺して消してしまう。。つまり、すべて神様、仏様に、私の運命をお任せします。求める事を止め、すべてを受け入れます。。という魂の宣言。。生命をのり出す事なのです。。いのり。。です。

手のしわと、手のしわを合わせて、しわ合わせ(幸福)  上手いこと言った仏壇のコマーシャルが、昔ありました。ごろあわせで作ったのだと思いますが、マトを得ていました。

人間は、自分の思い通りにしようとする心が、実現する事を幸福と考えています。

だから、人より頑張ります。。

しかし、自分の思い通りの裏には、必ず、思い通りにならない人を作る。

受験は分かりやすい例です。

思い通りとは、自分だけの幸福  他人の思い通りを奪い取る相対的な幸福です。

人との比較の中で生まれる幸福です。。これが求める幸福です。

人との比較の中で生まれる幸福は、同時に不幸も創り上げている事を知る必要があります。つまり、本当は、そんな幸福はどちらでも良い事なのです。

ある仏教系大学での、生徒と教授のやり取りで面白いのがあります。

「教授!今度の試験で、自分が受かるかどうか心配です。。」教授は、「お前が受からなくたって、他の誰かが受かるんだからいいじゃないか。」

奥深いやり取りです。これは、お前個人の幸福なんて、どちらでも良いちっぽけな事だ。。自分の幸福なんて本当はないんだよ。。ということ。。

難しいですねえ。本当の幸福とは、自分だけの幸福、相対的な幸福を求める事をやめて、降参して、祈りの心で生きる。。お任せして、与えられた運命を、今を一所懸命生きる。。それを全ての人ができる様になれば、地球は悟った星となります。

自分の幸福も、他人の幸福も、地球の幸福も、同じだという世界。同時だという世界。それは祈りの世界に最初からあるのです。忘れてるだけです。

小学校の時の大正生まれの先生が面白い話をしてくれました。

(ある日、お酒を飲んで、帰ろうとして、扉を開けたら道が無かった。。

これは狸に化かされているな?と思い、しゃがんだら道が見えた。。お前たちも狐や、狸にばかされたら、しゃがめばいいんだぞ!)

僕の子供の頃は、まだ狸や狐に化かされる。。という話を、大人がよくしていた時代です。

私は、何故かこの話が好きで、覚えていました。。今では、違った解釈になります。

この先生は、お酒を飲み過ぎて、下腹の力が抜けたのです。。だから最初からある道が見えなくなった。。しゃがむとは、下腹に力が入る動作です。。合掌も同じ、下腹に力が入ります。下腹に力が入ったら、本来最初からあった道、求めなくても最初からあった幸福に気づくのです。

祈りとは、しゃがむ事と同じです。我に帰る感じです。

自分の思い通りにしよう。。という心は誰にでもあります。。能力があって、頑張る馬力のある人は、それを実現してしまいます。しかし、それがいい事とも言えないのです。能力が低く、頑張るのが苦手な人は、何をやっても思い通りにいかない事に、嫌気がさして、「あー もうどうでもいいわ」と、頑張ることをやめてしまう。。これは、むしろ良いことです。むしろ幸いです。

身体がそうさせているのです。。どうにもうまくいかない状態が続くと、今まで執着していた事を、手放せるのです。自分だけの幸福を求める事を、やめさせる為に、身体は、うまくいかない体験を続けさせて、ああもうそんな事どおーでもいいわ。。と、手放させるのです。親鸞さんの悪人正機説は、こういう事でもあります。

2012年ごろ、Twitterを、やっていました。。今はやってません。その時、ある人が、「最近、いろんな事が、そんな事どおーでもいいわ。。と、思えてきたけど、私は、このどおでもいいわ。。という心境は、むしろいい状態な気がするんですが、人間として成長した心境の様に思えているんですが、間違っているんでしょうか?」

と、ツイートした女性がいました。

私は、「私もそう思います。私も時々、どおでもいいわ。。と思っていますよ!でも、その度に、楽になっていく感じがします。生きやすくなります!」と、お返ししました。