裁判になる様な揉め事は、仲直り不可能な事案な訳ですが、何故、仲直り不可能かと言えば、どちらが正しいとか、どちらが間違っているという事を、お互いが、自分こそが、正しく、間違ってるのは向こうだと譲らない状態。。意固地な状態です。。お互いが、日本と、某隣国の関係といえば分かりやすいでしょうか?
先日もブログで書きましたが、近すぎる関係では、兄弟、親子、夫婦、隣国などを含めて、揉めると修復不可能になりがちです。
近すぎる関係は、求めすぎる関係です。求め合いすぎて、求めた状態になるまで、納得がいかない。。許せない訳です。
他人が自分の思い通りになる訳がないと、遠い他人相手には、冷静に判断できるのに、近い関係の人には、分からなくなるのです。
それは、お互いが同じ土俵上にいるのです。
どっちが上、どっちが下。。どっちが正しい、どっちが間違い。。とやってるうちは、同じ土俵上にいる。。つまり同じ次元にいるという事です。
同じ土俵上にいれば、押し合うほかないのです。
闘うほかないのです。何故なら、自分が押さなければ、押し出されてしまうからです。
押し出される前に押さねばならないと思うのです。
同じ次元にいる者同士が、一度揉め出すと、裁判になってしまう。。今は、なんでも裁判です。。
ひと昔前なら、どちらかが大人になって、土俵から降りる。。という 選択肢があったはずです。謝るという行為です。
どちらかが、土俵から降りれば、押し合う相手は居なくなって、ただ土俵上に、一人で立っている人。。がいるだけになります。
そうすると、土俵に残った人が、何で怒っていたのか? 何を闘っていたのか、ポカンと分からなくなるのです。。
土俵から降りるとは、負けてあげて降りてあげる度量。。という事もあるでしょうし、
どちらかが、人間的に成長して、今まで争っていた事が、どうでも良い事になった時。
これも、降りる、というより、何故、俺たちは、土俵上で向き合っていたんだっけか?と感じる瞬間です。そして、そう問われた相手は、「そうだね。。仲良くしようか?」
となります。。
合気道や、合気武術では、身体でこういう事を理解する事をしています。。
人は強く押されれば、強く押し返したくなるのです。
しかし、どちらかが、突然どうでも良くなって、押す事を止めて脱力すると、押す場所が消えて、力が抜けて、笑いに変わるのです。
ですから、終わりのない揉め事に突入してしまった場合。。
時間を空けて、距離を一度とって、そんな事どうでもいい揉め事だった。。という次元に自分が成長する事です。
その成長した自分で、再び向かい合うと、相手からしても、昔の揉めてた、喧嘩してたときの相手ではない気がして、怒る理由がなくなってしまうのです。
そういう経験あるはずです。
例えば、学生時代大喧嘩をした友人と、久しぶりにばったり街で会った。。気まずい。。どうしようか? でも、その相手が、その事を忘れていて、学生時代の懐かしい同級生に会えた。。嬉しい。。という顔で近づいて来たらどうでしょう。。
許してしまいます。。忘れたという事は、囚われがなくなった。。という事です。
囚われ同士が喧嘩になる訳ですから、どちらかが、大人になり、囚われを放し、同じ土俵上から、降りる。。降りるのが負けの様に思えるなら、同じ土俵上を超える。。超えた人間になる事です。またそういう揉め事を通して、自分達が、何に囚われているかを知る過程を、経験しているともいえます。
終わらない喧嘩には囚われがある。。そう考えてください。