心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

遠山の目、観の目、見の目

私は、ブログの中で、よく見るを、観るという字で書いてるのをお気付きでしょうか?

また、分かるを、解ると書いています。

これは間違えているのではなく、私の中では、観ると見る。。

分かると解るは、別次元であり、このブログを通して、感じとって欲しいのは、観る。。そして解る事です。

物事を見れば、分析となり、分かる世界。。

物事を観れば、全体が解る。。

 

最近、宮本武蔵五輪書の中でも、この見ると、観るの違いが書かれている事を知り、感動しました。。

やはり、突き詰めていくと、皆、同じものが見えてくるのです。。

 

剣道の世界でも、見るのではなく、観る。。という事を指導する様です。。

それを遠山の目。。と言うそうです。。

見るとは、そこに焦点を当てる事です。。

それは、私と、あなたは、別々であり、距離があり、時間がある。。という認識を大脳がしてしまう事です。。認めてしまう事です。。それが真理と違う為、誤解を創り、その誤解によって苦しんでいるのです。。誤解が解ければ、その場で苦しみはなくなる。。

見る事により、分かったつもりになる。。その誤解にを、観る理解に変えれば、苦しみはなくなるのです。。それが真理です。

東京から、ナゴヤまで、1時間半かかる。。という  肉体的概念は、同時に東京から名古屋まで 300キロあるという、大脳の概念を生みます。。

人間関係。。も同様です。。距離という他人概念が生まれ、辛い人間関係が生まれます。

 

しかし、魂レベルでは、時空を超えているのです。。だから遠隔治療が可能なのです。。

 

距離があるから、対象物として意識認識し、分析できるのです。。だから分かるのです。。

しかし、分ければ分けるほど、解らないのです。。全体が観えないですから。。

 

禅では、ただ座り、自分以外のものはないのだ。。全てが自分であり、自分が全てであるという事を、全身全霊で、感じ取る。。観じとる。。といっていいでしょう。。

だから全て自分である世界で、人の為という概念は存在しないのです。。

自分しかいないですから。。すべてが自分の事です。。宇宙と離れた自分はいないという事です。

 

だから、分析できない。。宇宙に、仏になり切るほかないのです。。

仏を分析できますか?

それが理解できた時に、分析をやめるのです。。

禅の姿は、分析することを放棄した姿でもあるのです。。無抵抗、無分析です。

祈りの姿も同様です。。祈りとは、命をのりだす事です。分析する事を放り投げた姿です。

お任せの姿です。

では、観の目とは、なんでしょう。。

仏像の様に、どこを見ているか解らない。。焦点を決めていない状態。。

 

武術においては、遠山の目。。という  様に、やはり、相手の向こう側を観る様な目です。。

相手の何処かに焦点を置いて見た瞬間に、相対する相手を認め、一体感が切れるのです。

すると、力む。力で相手をなんとかしてやろう。。という  意識が生まれるのです。。

難しいですか? なんとなく解りますね?

なんとかしようという力みではなく、何故かなんとかなってしまう。。という法則に乗るのです。

 

整体の世界でも同じです。

相手に焦点を合わせるな。。お客さんの向こう側を観ろ。。ボーっと観ろ。。

肉眼出見るな。。と指導されました。。

 

肉眼では、生命の動きは見えないのです。。

意識に上がってくる様な、低い次元。。症状、病気しか見えない。。

 

だから、病気を分析するのです。。分析すればすべて分かると、思いたいのです。。

病気をどんだけ分析したって生命は観えない。。生命側から観る。。生かされている側から観る。。それが正しい観方です。。病気から見るのは、病気しか見えません。

私達は、一つの呼吸をした、一つの存在です。。

分析などできないのです。。分析できるというエゴを捨てられた時、生命が観えるのです。。

ですから、どんなに科学が発達しても、やはり生命が解らなければ、病気という苦しみから逃れられないのです。。

だから、科学がすべてを解決するか?と言えばNoでしょうね。

 

本当に人類が気づくべきことは、全体として観ることです。

それができる様になれば、病気は、人類から消えていくのでしょう。。

何故なら。病気は、そこに気づくのに必要だから無くならないのです。