人間の持つ感情。喜怒哀楽は何故あるのか?
何故必要なのか?
私達の心の構造は、真心である本体の周りに、情である感情があります。。
本体であり、実在するのは、本体である生かされてる心であり、それをドーナツ🍩の真ん中の空という場所としましょう。。
そして、情である。。感情、喜怒哀楽は、空の周りにある、食べられる部分、色の着いた部分です。
色即是空空即是色です。
そこは、色がついていて、いかにも実在してるように見えますが、実は、映画のスクリーンフィルムのように、現れては消え、現れては消えの連続、。そのスピードが速いと、映画のように、実在した世界のように映る。。
でも、本当は、フィルムという潜在意識に記録された過去世の録画映画が、投影されている。
それを肉眼で見て、囚われているのです。。一喜一憂しているのです。
本当は、映画を見ているのです。。
過去世の自分のこころと、行動の正解、不正解の記録を見ながら、反省するビデオです。。
映画を見ながら、一喜一憂する。。
それが喜怒哀楽です。。
運命という過去世の録画映画を見ながら、感情をあらわにする行為は、喜怒哀楽する行為は、自転車🚴♀️に乗る練習で、何回も転ぶ事と同様です。。
喜怒哀楽は、転ぶ事です。。
喜怒哀楽が悪いのではないのです。必要だからあるのです。
必要だからあるものは、使う必要があるのです、
喜怒哀楽するから、喜怒哀楽ではない、一喜一憂しない不動心。。
空の心を知る。。そう言う仕組みです。。
運命というレールは、その仕掛けで満ちているのです。。
喜怒哀楽する事を抑制す事は、我慢であって理解ではないのです。。
我慢には限界がある。。
限界があるから、限界に来ると、ひとを殺したり、自殺したり、過労死してしまうんです。
身体に1番毒なのは、感情の抑制です。。それが毒になるのです。
弱音を吐かないのが偉い訳じゃない。。
野村克也監督のように、テレビでも愚痴るぐらいの人の方が自由です。。
それは、自転車を一度も転ばずに乗れる様になろうとする欲望です。。
転ぶから乗れる様になる。。
この事を知った上で、お互いが、喜怒哀楽して、ぶつかり合い、業を消していくという事をしているのです。。
喜怒哀楽を出し過ぎて、絶縁になる事もあるでしょう。。
それは、転ぶ事で、乗れる様になる、。という理解不足です。。
人類が、この自転車理論を理解すれば、喜怒哀楽で感情をぶつけ合いながら、お互いが磨かれていく。。喜怒哀楽が消えていく。。調和していく。。その為に用意された喜怒哀楽だという事です。
喜怒哀楽は、欲望を持つ人間に与えられた、道具です。。
喜怒哀楽を通して、真実を知る。。
転ぶ事を通して、乗れるを知る。。
自分の本体という仏に乗るのです、
それは、お互いが死ねば仏。。という感じで。。
仏であるが故に、肉体次元で生きるのに、周りにつけた喜怒哀楽という欲望感情があり、それを情という心だと勘違いした所に、争いが起きているのです。
喜怒哀楽、そして五感というものは、魂という空である、無である魂が、肉体次元で生きるのに必要とされた、後付けの心です。。
愛情と言うように、愛に裏付けられた情を使いこなすようになる事。。
それが自転車に乗れる事です。。
愛に裏付けられない情。だけが心だと思うから調和しない。。
衝突するのです。。
今日来たお客さんと、こういう話をしたのですが、身体の表面で繋がる感じと、身体の中心で繋がる感覚。。合気道の様な感じ。。違いを体験してもらい、実際、中心で繋がろうとするとぶつからない。。柔らかい。。という事を体験してもらいました。