子供の頃よく見た。サントリーのCM
この曲が、小林亜星さんの作曲だったと知ったのは最近の事。。
そして、当時、サントリーのCMによく起用されていた開高健さん。。
この動画を見ると思い出すでしょう?
子供の頃、一番かっこよく見えた大人が。開高健さんでした。。
僕の場合、僕の西城秀樹や郷ひろみではなく、開高健さんだったのです。。
このコマーシャルでもそうですけど、一言も喋ってないのに、引き込まれていくこの目力と、雰囲気。。
カッコいい。。
今見てもやっぱりカッコいいですね。。
そして、この方は、僕の恩人でもある。。
高校生の頃。。ノイローゼだった事は何度もブログに書きました。。
そんな中で、人は何の為に生まれるのか?
人は何の為に努力するのか? そんな事を考えていたのです。。
その中でも、一番疑問に思っていたのが、人間は、純粋な状態で生まれてくるのに、何故、大人になるに連れて汚れていくのか?
これが最大の疑問だったのです。。
そんな中、テレビで、📺開高健さんが、インタビューに答えている番組があって、ちょっとよく覚えていないんですけど。。
「大人は爛熟する。」という表現を使ったんです。。
爛熟。。妙に響く。。
この爛熟という言葉で、大人になるに連れ、何故汚れていくか? 解ったのです。。
開高さんは、子供は純粋だが、それは本物ではない。。爛熟した大人の純粋さこそ、本当の純粋なのだ。。
という様な事を言っていた。。
なるほど、赤ちゃんは純粋だが、まだ泥の中に入っていないだけの純朴であり、大人になるに連れ、泥にまみれて汚れていく。。
最初は、その汚れを、環境のせいにして、開き直るが、次第に、自分の心が汚れているのは、環境のせいなんかじゃなくて、自分の心の在り方が間違えているからなんだ。。
と、気づき始める。。
それで、もう一度、自ら。泥を払い除けていく。。
すると、泥の中に在りながら。純粋である大人になっていく。。
それが爛熟した素朴さなのです。。
私達の人生とは。まさに、この爛熟した素朴さ。。を、、理解する道のりです。。
一度、自分で気づいて払いのけた泥は、もう二度と、自分に付着しないのです。。
それが理解、悟りです。。
お釈迦さんが、泥の中で綺麗に咲く、蓮の花の上に座っている姿。。
あれは究極の爛熟した素朴さの姿です。。
開高健さんの爛熟と素朴さ。。という言葉。。
これで、僕は救われた。。
何で大人は汚れるか?ではなく、一度汚れる必要があるのです。。
汚れてる事だけを、善悪で区別するのは間違いです。。
汚れているのは、爛熟する為に必要なプロセスです。。
ヤクザが、牧師になったり、NPO法人で、不良少年を預かり、更生させる施設をやったりする人がいます。。
あれは爛熟した姿です。。
爛熟するからこそできる事がある。。
爛熟という強さです。。
自分の子供が非行に走った事に嘆くにのではなく、非行を通して、爛熟していくそのプロセスを、見守ってやる。。待ってやる、、許してやる。。
そういう親の心の勉強でもあるのだと思います。
一度汚れないと爛熟できないのですから。。
汚れない様に育てようとする教育は、どうやら間違いの様です。
それでは、爛熟できません。
今を嘆く必要は無い。。これでいいからこうなっているのです。
今からスタートですから。。