引用。。
この言葉は『歎異抄』の「後序」の中にある言葉です。『歎異抄』は、宗祖親鸞聖人の門弟であり、聖人の晩年に直接教えを受けられた唯円の作とされているのが定説です。
その著書の中で、晩年の親鸞聖人が常常よく語っておられたお言葉に「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。思えば救いようのない多くの罪を背負ったこの罪業深い身を生きるほかないこのわたしを何としても助けようと決意していただいたことは、なんともったいなく、有難いことであろうか」と述懐なされたと記されています。
引用終わり。。
この言葉は、親鸞さんが残した有名な言葉です。。
現代訳すると、阿弥陀様は、つくづく、わたしただ一人のための、救いの光を当ててくれていたのだなあ。。
このように訳すと、親鸞さんだけが、選ばれた特別な人間で、阿弥陀様は、親鸞さんだけを救い、救われた親鸞さんが、庶民を救う。。みたいな風にも取れますね?
でもね。。解釈は人それぞれ違うと思うんですけど。。
僕は初めてこの言葉を聞いた時、こう理解したんです。
私はついつい、人のために、万人を救う為にと、鼻息荒くして力んでしまうが、何も、阿弥陀様の光は、太陽の光の如く、万人に降り注がれているので合って、私が、太陽の代わりのなれるものでもない。
私が人の為にと、正義感に燃えるのもおかしな話だ。そんな力はないのだ。。
阿弥陀さんの光は、一人一人に、その人に適した光に変えて導びいているのであります。
その事を知らせる役割があるだけで、救うのは阿弥陀様だ。。
それは親鸞にとってもそうで、私親鸞一人に対しての、個別授業をしてくれているのであって、それは他の人達にとっても同様です。。
だから、私たちは、人の為にと、正義感に燃えるのではなく、自分の為に生きるということ。。人の為に。。とは他人事でもあるんです。
自分の為にとは、自分の事という事です。
阿弥陀さんは、60億人の人達に、ひとまとめの光を当てているのではなく、個別に当てているのであります。。
ならば、自分に降り注ぐ光は、自分の気づきに必要な個別な光です。。自分の為です。
これは、他の人にも同様です。。
以前テレビで、認知症の奥さんを介護してる旦那さんが、言った言葉。。
「俺は、今まで、妻を介護してあげていると考えていたが、最近は、逆に、俺は妻に、教えられている気がする」
この気づきです。。
人の為にやってる様で、実は、人の為にやってるのではない。。自分の勉強だった。。自分の個別授業だった。。
という気づきを促すためにこういう経験をさせていただいている。
とも言えるのです。。
他人の為と思えば、自分の為を忘れてしまう。。
自分の為とは、エゴではなくて、自分の事として、自分を見つめていくこと。。
人の為にやってるようでも、それは、実は自分の為であるということ。。
そういう事を親鸞さんは、しみじみ思ったのではないか?
親鸞さんは、弟子にしてくれと尋ねてくる人に、私は弟子など取る様な、人物ではない。。もし弟子というものがあるならば、それは、阿弥陀さんの弟子という事でしかない。。みんな阿弥陀さんの弟子なのであって、私たちは、阿弥陀さんの弟子達でしかない。。
私も、皆さんも変わりがない。。
という事を言っていますね!
この事からも、親鸞さんは、すべては、阿弥陀さんから回向される光の恩恵に中で生かされ、気付かされていく道。。
自分の事だ。。自分の為に生きる事。。それはエゴではなく、それが阿弥陀さんへの感謝でもある。
そのように捉えていたと思う。。
私達は、時々思い返す事です。。
これは、世の為、人の為なのか?
それとも自分の個別授業なのか?
宿題を終えた人は、人の宿題を手伝える余裕も時間もある。。
それが人の為に。。です。。
でも、宿題が終わってる人間は一人もいない。
ならば、自分の宿題をほったらかして、人の宿題を手伝っても、結局、自分の解る範囲しか手伝えない。。相手の学力を落とすことにもなりかねない。
常に、自分の宿題を、継続してる人は、よく理解してるから、おしえれる事も多いし、教える時間も短くできる。。教え方も的を得ている。。
フジモリくんは自分の勉強をしながら、時々。僕の質問に答えてくれた。。あれが理想だ。
中学生の頃、藤森くんのおかげで成績が上がった。。
勉強ができる子と。一緒に勉強すると成績が上がる理由だ。。
ちなみに、僕は。どの宗教団体にも所属しておりませんし、所属しない方が良い。。と考えています。