明けましておめでとうございます。。
新年最初の言葉として、瓦を磨いて鏡となす。。
という禅語を、贈ります。。
これは、瓦をいくら磨いても鏡にはならない。。
それを私達は意味のない行為だと考えてしまいます。。
しかし、瓦を磨く事、ただ瓦を磨く事の中に、実は、ただ在る。。
私達の人間の与えられたあるがままの幸福があるのです。
引用。。
禅において坐禅は非常に重要な修行である。
しかしそんな坐禅も、「仏になるための手段」「悟りを開くための手段」として捉えてしまったなら、途端に坐禅ではなくなってしまう。
仏の行いをすれば、人はその時、仏として生きたことになる。
仏の行いとしての坐禅をすれば、人はその時、仏を行じているのである。
それはある意味で、瓦を瓦として受容するような、自分を自分として授与するような感覚に似ている。
何か別のものになろうというのではなくて、そのものが、そのもののあるべき姿を全うすれば、それ以外に仏などというものは存在しないのだ。
引用終わり。。
私達は、結果を出す為の手段としてしか、今を生きる事ができない。。
結果という目標に近づく手段としての行為以外を、意味のない行為。。とし、評価しないのです。。
しかし、私たちは、本来、ただ生きる、ただ座禅する。
ただ歩く、ただ食べる事の中に幸福が含まれている事を、忘れてしまうのです。。
今は、将来の目標の手段ではありません。
その生き方は、今を殺しているのです。
意味のある生き方。。とは、今を殺している行為でもある。
薬を飲むと、症状が消えるが、元気も消える。。
それに似ています。。
薬を飲む事は、症状を消す。。という目標の手段としては、意味のある行為です。。
為になる行為です。。
しかし、こう言った、為になる行為こそ、今、ここの、魂の元気、輝きを曇らせている。。
それを、老子さんは、無為自然。。と、為にならない、意味のない行為こそ、あるがままに輝く命だと言うのです。。
お釈迦さんは、空即是色。。と、空になりなさい。。と、解くのです。。
私達の毎日は、ただ生きる事の練習です。。
禅によって、集中力を養うわけでも、悟りに向かうものでもありません。。
ただ座れない、業を抱えた私達が、業を手放しながら、ただ座れる、本来の自分に戻っていく。入れ替え作業です。。
そこに目標はないのです。。
目標は無いが、目標にもしていない知らなかった自分が見えてきたり、道が見えてきたりするのが楽しいのです。。
だから、僕はよく言いますね。。
「10年後、自分がどうなっているのか?何をしているのか? どんな価値観を持ってっいるのか?楽しみだと。。
10年後はこうなりたい。。と言う目標はありません。。
それが、本当は正しいのです。
矢沢永吉さんが、こう言いました。
「僕は、ファンにも、スタッフにも感謝している。。だからこそ、ステージを俺が楽しみたいんだ。。」
これは、瓦を磨いて鏡となす。。ではないでしょうか?
自分がステージで心の底から楽しんでいる姿こそ、皆さんへの感謝の形だと言うのです。
普通、今を手段として生きてる人なら、ファンや、スタッフに感謝してるからこそ、ファンや、スタッフの為にいいステージをやりたい。。という発想になります。。
永吉さんは違うんですね。。
自分が今、このステージを楽しめていなくて、誰が楽しいんだ。。
そういう事です。
私達は、意味を求めず、自分という瓦を磨いておればいいのです。。
確かに、鏡にはならない。。
しかし、瓦は瓦にままに、輝きを放つのです。
あるがままの瓦になればいいのです。
能力のある無しは関係ないのです。。