気。。というと、中国の気功のイメージが強くて、何か特別なエネルギーであるとか、変に誤解されたり、特別視されたりしているのです。
僕が最初に、気について習ったのは、一番最初は、東京の西野バレエ🩰団の西野さんが、確か渋谷だったと思うが、そこで気の教室をしていて、本もたくさん出ていました。。
気功ブームを創った人でしょうね。。そこに通いました。二十代の頃です。
その次が、中国人気功師の、陳氏に、気功術を習いました。。
その気功は、皆さんがTVで見た事がある様な、エネルギーを自分で練って、増幅して相手に流し込む。。そんな感じでしたが、確かに威力があるというか。。体の中の気の流れが増幅されて気持ちがいい。。
しかし、僕にはとても違和感があって、昔流行った酸素バーの様に、人工的に造られた酸素を吸ってる様な違和感が、陳氏から流し込まれる気にも感じたんです。。
だんだん陳氏の気を流し込まれる事に、拒否感が出てきたんです。
これは後に、有名な気の治療をするM氏が、著書の中で、人工呼吸で人の呼吸を入れられたいか?。。人は、人の気をいれられたくない。。成る程そういう事だなあ。。
これは何か間違いなのではないか?
そんな時に、野口整体術に出会い。。気とは、人と人を繋ぐものであり、結ぶもの。。
人と大自然を繋ぎ結ぶのもの。。
そして意識的に、気を流そうとか、考えんなくても、常に交流しているものです。。
例えば、当院に来るお客さんで、子供を見て欲しいと、お母さんが連れてきて、椅子に座って見ている。。
あるいはお母さんを見てほしいと、娘さんがお母さんを連れてくる。。
椅子に座って見ている。。
見ているだけなのに、勝手に、僕との気の交流が始まる。。
それで、受けてる娘さんやお母さんと共に、勝手に交流が始まる。。
それは、繋がりを強め、結びを強めたのです。。
そうすると、見ていただけ、のはずのお母さん。娘さんが、決まって、帰る時に予約入れていくんです。
「見てたら受けたくなっちゃいました!」と。
また、ある人は、椅子で座って見てただけなのに、帰る時、椅子から立って、あれ、腰痛いの治ってる!
なんでですか? なんて人もいるんです。
気とは、人間が意識で練ったり、人に流し込むものではないのです。
むしろ気を通す、。とは、気の交流であり、一方的ではないんです。
だから、お客さんがよく、先生疲れるでしょう!と言われるが、確かに肉体労働的な疲れはあるが、気の交流をしている訳ですから、気のレベルは僕も上がるんです。
お互いが上がるんです。
だから僕も気持ちいいんです。。疲れもさほど感じません。
気を通す教室。。というと、特別な事を身につける。。と力んでしまいがち。。
そうではなくて、近くに近ずくだけで、勝手に交流が始まるもの。。
それを邪魔する意識を捨てて行く作業であり、むしろ、禅とか瞑想の世界です。
野口整体術創始者、野口晴哉さんは、天心で身体に触れなさい。。と言った。。
天心とは、治してあげよう、。とか、治るかな。。とか、治らなかったらどうしよう。。
という余計な意識を捨てて、ただ触りなさい、
そうすれは、勝手に身体が、身体どうして必要な気の交流を始め、繋ぎ直し、結び直すのです。
道元禅師の、只管打座。。と同じです。
悟りを求めて座るな、何かを期待して座るな。。ただ座れ。。それが真の修行であり悟りでもある。。
気を通す。。とは、何も求めずただ触る。。これができるようになればいいだけなんです。。
だから誰でもできる本能です。
特にお母さんと子供は、一心同体ですから、気が常に交流しています。。
だからお母さんの心の影響も受けやすいんです。
ただ座る。。ただ触れる、。これができるようになってくると、手が勝手に動くようになります。。手を当てたい場所、当てて欲しい場所に勝手に動く、動きたくなる。。
寝相と同じです、
自分の一番楽に感じる姿勢に勝手に変えて行くでしょう?
あれと同じです。
私達は、意識的になりすぎているのです。
無心になれない。。無心でないと気は交流できないんです。
でも、無心にさえなれれば、勝手に気は交流します。
気を通すとは、2人禅です。。
僕はそう思います。
それが気を通す。。という事です。