心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

生命を捨てざれば、生命を得ず。

生命をすてざれば、生命を得ず。。

これは、イエスキリストが言った。。と言われるコトバです。

キリスト教と、仏教は、全く違う教えの様に見えますが、このイエスキリストのコトバを聴くと、イエスキリストさんが住んでいた次元、そして人類に伝えたかった事は、同じである事が解ります。

①生命(いのち)を捨てざれば、生命(いのち)を得ず。。イエスキリスト

②空になりなさい、色即是空空即是色、般若心経の世界。。お釈迦さん

③只管打座、、座禅は、何かを求めて座るのでは無い。。ただ座るのが坐禅。。道元禅師

④惟神(かんながら)に生きよ。。神道

⑤無為にして為せ。。あーしようこうしようと、思慮分別して考えて生きるな。。老子

⑥自然法爾。。阿弥陀様に生かされるがまま生きる。。親鸞聖人。。

 

僕が時々、僕の好きな座右の銘としてご紹介するコトバ

⑥身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。。

 

五感の世界(目に見える世界)を超えて、第6感の目が、第三の目が開いた時、開眼した時、私達は、自分で生きているのではなく、生かされ、守られ、愛されている存在だった。。大昔から。。

それに気づくのです。

 

お釈迦さんが、菩提樹の下で悟った時に気づいた事も同じです。

「悟りの世界求めて、修行して来たが、実際悟ってみると、私達は、最初から悟っている存在だったんだ。。と気づく。」

この言葉は、道元禅師の、弟子に聞かれた質問。。

「私達は、最初から悟っている仏性を持った存在だとすれば、何故、悟るのに修行が必要なのですか?」

この問いに道元さんは、悟っている存在だからこそ、修行をすれば必ず悟れるのです。

これを僕流に私訳すれば、「私達は最初から悟っている存在です。。ただ、肉体を持ち、肉体に付随した意識、目に見える世界が全てだという誤解に囚われ、自分の仏性を忘れているのです。だから、修行をして、全ての人に最初から流れる、生まれる前から在る仏性の周りにこびりついた執着、ゴミ、錆を、一つ一つ、理解しながら剥がしていく。

それが毎日の修行です。けっして難行苦行が修行ではありません。毎日の生活の中に、ヒントがあります。。毎日の生活も、禅です。。座る事だけが坐禅ではありません。。毎日、生活の中で、肉体への執着に気づき、気づいたらそれを手放していく。。すると残るのは仏性だけです。。空だけです。だから修行さえすれば、万人が必ず悟れるのです。最初から悟っているのですから。。キリストが言った、生命を捨てざれば、生命を得ず。。これも同じ意味です。

肉体への執着を捨ててこそ、本当の命に気づくのです。。生かされし永遠の命を知るのです」

 

全ての聖者は、同じ事を言っているんです。

下の図の様に、私達は、最初から悟っている、仏という霊魂によって操られているのです。

それを忘れて、肉体が全てだと思い込み、肉体を守ろうとして、肉体に付随した意識だけで生きている状態。。

これは動物の弱肉強食の世界と同じです。

自分を大きく見せようと威嚇し、自分の縄張りを増やそうとする。。

それで戦争が起きる。。

では人類に戦争が無くなる時とは、それは、イエスキリストが言うように、生命を捨てざれば生命を得ず。。

自分は肉体人間では無い事に、全人類が気づく事です。

 

真の平和とは、最初から調和している次元で生きる事でしか成し得ない。。

肉体に執着したまま、戦争が起きないように、いろんな法律を作っても、必ず、戦争は起きてしまうんです。

肉体の生命を捨てなさい。すれば本当の生命に気づく。。

地球上の全ての人がそこに気づいた時、戦争という概念すら消えます。。