正直者は馬鹿を見る。。正直者は損をする。。
確かに、目に見える世界ではそうですよね?
だからずるく生きた方が得だ。。
という考え方に至る。。殆ど人がそうでしょ? 社会に出れば特にね!
それが当たり前になってしまうんです。
でも、僕はそうは思わないんです。
正直に生きたら、得をしなきゃおかしい。。という発想がそもそも間違いなのです。
正直に生きるとは、魂に素直に生きるという事。。
魂のままに生きるという事。。あるがままに生きるという事です。。
あるがままに生きる事、魂に正直に生きる事。。そのものが尊いんであって、正直に生きたら得するはずなのに、世の中ずるいやつほど得している。。許せない。。
と、思うのが間違いであり、苦しみを産む。
僕もそう思っていた時期がありました。。
じゃあ、俺もずるく生きて得をしよう。。そういう生き方をした時期もあるんです。
20代前半ぐらいまではそうでした。。
でもね、僕の性分でしょうね。。ずるく生きてる自分が気持ち悪いんです。不愉快なんです。
それで俺は心で決めたんです。
正直者は馬鹿を見る
馬鹿を見ても正直に生き切る事そのものが正直者なのだ。。
だから俺は、正直に生きる。。魂を汚さない生き方をする。。
それで損したって関係ない。。
そうしていれば、知らず知らずのうちに、いつの日か、正直に生きる事で損をしている。。でも正直を続ける川村先生って。。なんか素敵、本物!と、感じてくれる人がいる事でしょう。
いなくても良い。。
そして、私もそういうふうに生きてみたい。。そうか、正直に生きる事そのものが尊い幸福なのであって、それによって、損する得するなんて事は、二の次、人生の枝葉なんだな。。
と、思える人が出てこれば、それこそ、真の善因善果なのです。
知らない所で花が咲く。。これで良い。。
誰でしたか? その人が歩いた足跡に花が咲く🌼。。。
この逸話は美しいですね。。
自分では花が咲いた事は知らないのですから。。
正直に生きたから、会社が大きくなり、儲かる事が善因善果ではないということ。。
僕の好きな道元禅師も言います。。
只管打座。。。大好きな言葉です。。
何も求めずただ座る。。それこそ尊いのだ。。
座禅をしたからこういう効果がある。それは座禅ではない。。
座る事そのものが修行であり証なのだ。。と、修証一等と言います。
そう言う事。。
私達は、良い事をすれば、良い事が返ってくる。。と、目に見える肉体的善悪、幸福不幸に囚われているのです。
しかし、本当の善因善果、悪因悪果とは、魂のままに生きたら、魂のままに生きる世界が広がりますよ。
魂に嘘をつき、肉体的欲望で生きると、肉体的相対世界という狭い世界。。氷山の一角の世界で、一喜一憂しながら、横取り合戦しながら、有頂天になったり、不安になったりして生き続けると言う悪果が訪れるのです。
ですから、僕はいつも思います。
「正直者は馬鹿を見る、。それでも正直を続ける事こそ尊い、魂を磨いているのだ。。それは善因となり、善因は、肉体的次元を超えた無限の空の世界を見せてくれる。。
それは、災いがあってもそれが障りとならない。。無碍の世界。。無碍自在の世界の住民になる事です。」
魂に正直に生きる事が、一番気持ちいいのです。
ウンコしたいと思った時にするのが一番気持ちいいのと同じです。
歌いたい時に歌うのが気持ちが良い。
歌ったから賞を取れた取れないはおまけだと言う事。。
それが魂に正直、。あるがままな生き方だからです。
それは損得に囚われていてはできない生き方です。
損得なんて、目に見える肉体的相対次元の世界での出来事でしか無い。。
氷山🧊の一角の世界でしか無いんです。
昨日、お客さんで、自殺したい。。と、言ったお客さんがいましたが、これも、氷山の一角の世界で思い通りにいかないからです。
でも、自殺したいとまで思った先には、本当は生きたい魂が在る事の気づきが待っているのです。
自殺したいと思う人は、善因善果、悪因悪果を、勘違いしているからです。
その誤解を解く入り口に着いた時、株価でいうと底打ちした時、自殺したいとか、誰でも良いから人を殺したい。。と言う気持ちになるのです。
そんな時、その心を、否定するのではなく、昨日僕は、自殺したいと言ったお客さんに、「そう思う気持ちが出てきたと言う事は、本当は生きたい。。と言う魂に気づくプロセスです。。
夜明け前です。。誰でもこころの奥底には自殺願望があります。
それが出てくるほどの嫌な目に遭っていないだけ。。しかし、その心が出てきたと言う事は、そのこころを捨てる事もできるのです。屋根が汚れている事に気づいたら屋根を掃除して汚れを落とせるでしょう!自分の汚れに気付けた事は、尊いのです。」