人は、動物を殺生せずには生きていけません。。
しかし、仏教では、殺生はいけない事であるとしながらも、殺生そのものを禁止するのではなく、殺生して食べる動物の魂が、人間の身体の細胞の一部となり、昇華させる様に生きなさい。
そうすれば、殺された動物も、活かさせる事になると。。
仏教の奥義は、煩悩即菩提です。。
直訳すれば、煩悩そのままに悟りの心を得る事ができる。。
現代風に言えば、欲望そのままに、本当の幸福を知る事ができるよ!
昔の仏教は、これを誤解して理解できなかった為、戒律を守る事。。
その中に殺生してはならぬ。。とあれば、精進料理しか食べない。。
肉は食べないし、色欲を起こさない。。と、昔の修行僧は妻帯しなかった。。
妻を持たなかったのです。
高野山も、昔は女人禁制でしたね!
しかし、法然さんが現れてそうではないと。。煩悩即菩提。。
悟りとは、煩悩を封じ込めたり、断ち切る事ではないんだ。。
そんな事はできやしない。。
人間は罪を犯すのです。
罪を犯すが、そのその犯した罪、身口意。。身体の行い。。言葉の行い。。心の行いの間違いを糧として、本当の菩提心。。真の幸福を知る事ができるのです。
お釈迦さんは、罪を犯す事そのものを、戒めているのではないのです。
罪を犯しっぱなしを戒めているのです。
雨降って地固まる。。
災い転じて服となす。。
ノーレインノーレインボー 雨が降らなきゃ、虹が🌈立たない。。
肉体次元に生きる人間が、自己保存欲を抱えた人間が、罪を犯さず生きていく事は不可能です。
自転車🚴♀️は転ぶ度に、乗れるコツを掴んでいく様に。。
これは仏の船🚢に乗るコツと同じ。。
人間も、罪を犯しながら、それを後悔したり、自分を責めたりするもでもなく、その身口意の誤った行いを認め、受け入れ、反省して理解する。。理解するとは頭で理解するのではなく、身体ごと理解する。。それを昇華するというのです。
親父が死んだ。。母親が死んだ時、迷惑ばかりかけて、親孝行もろくにしてやれなかった事を後悔してしまいます。。
親孝行したくとも親は無し。。と言いますが、何も世話になった親に恩返しすることが、故人への供養では無い。。と、仏教ではいうのです。。
亡くなった親父への恩返しは、法事をする事では無い。。子孫が災い転じて福となす事。。
人生の過ちを通じて、魂を昇華させていく事なんです。
子孫の魂が昇華した分、その光は亡くなったご先祖にも届く。。その光は、蝋燭の🕯火❤️🔥の如く、永遠に分け与えられ、先祖の世界でも拡がっていくのです。
現世界での人間関係での過ちも同様です。
相手に嫌な思いをさせてしまった。。相手を傷つけてしまった。。
何であんなこと言っちゃったかな? そう後悔したり、自分を責めたりする事は、僕でもしょっちゅうあるんです。
僕は口が悪いが、強い口調で言い過ぎてしまう。。しかし、その後いつも後悔しているのです。
しかし、やった事で後悔して、自分を責めるのはやめよう。。煩悩即菩提。。
この失敗、過ちを通じて、今度からはどうするのか? 反省して昇華しよう。。
その昇華した心の光が、傷つけてしまった相手への供養になるのです。
お釈迦さんもそう言っています。。
やってしまった過ちは、縁があるから過ちを犯せたのです。。
犯す事になっていたのです。
過ちを犯すから、分かる事があるからです。
過ちを犯さない様に生きても、気づきがありません。
せっかく過ちを犯せたなら、そこから学べる気づきがあるでしょう?
その気づきこそ。真の幸福、菩提心なのです。
だから、やってしまった事。。それは起こるべきして起きた事です。。
それを後悔する必要はないのです。
そのやってしまったからこそわかる事。。それが雨降りの後の虹🌈です。
雨が降らなきゃ見えないものがある。。
だから、人間は、災いを起こす様にしてあるのです。