マザーテレサといえば、キリストの様な存在だと。。世の中では認識されているが、生前に書き残した書簡の中で、僕らのイメージとは違う、心の闇で苦しんでいた事が分かったのです。
マザーテレサは、「神など信じ切る事などできやしない。。
信仰すればする程苦しい。。と言う、キリスト教の信仰、イエスキリストを信じる事で救われる。。そんな事は少なくとも自分には起きていない。。」
と言う告白です。。
でもね、これは無理はないと思うんですよ。。
ここが仏教以外の宗教の限界なのです。
もしお釈迦さんにマザーテレサが相談したとするならば、こう言うだろう。。
「キリストとは、イエスキリストの事ではないよ!。。キリストとは真理という意味だよ。。
真理は、全ての人間の中に、生まれながらに流れ続けています。。生まれる前からです。
だから、あなたは、イエスキリストを信じようとするのをやめて、自分の中に流れるキリストに気づき、あなたの中を流れるキリストに、身を任せるだけでいいんだよ。。
それが本当の信心だよ。。信心とは、無理にイエスキリストを信じようとする事じゃないんだ。。あなたの中を流れるキリストに身を任せる事。。
それが信心だよ。。親鸞も言っておるじゃろ。。他力回向。。と、信心回向と。。
つまり、信じる心とは、対象の神を信じようとする事ではなくて、信じる心、お任せする心すら、阿弥陀如来から、回し向けられているもの。。最初から与えられているものだよ。。
だから、いいかい! 神を信じようとする努力を辞めて脱力してごらんなさい。。
力を抜いてごらん。。
そしたら、気づくでしょう。
あなたは最初から阿弥陀如来に与えられていた、信心に乗って生きている、生かされていると知るでしょう。
流水プールを🏊♀️逆に泳げば、いろんな苦痛があるのは当たり前だよ。。自分が神を信じようとする努力が、実は苦しみ、闇をつくっているんだよ。。
それで神様を信じれば、この苦しみが消える?救われる?
そんなわけないでしょ!
流水プールを逆に泳ぐ努力をやめて、脱力してみればいいだけ。。
そしたら自動的に、阿弥陀如来の流れに身を任せる事になるでしょう?
それが信心です。。信心とはお任せする事。。疑わず全託する事です。
その流れに乗って何処に行くかわからな不安に最初は苛まれるでしょう。。
だから、努力して、目に見える目標、。流水プールを逆に泳いででも目標の対岸に、泳ぎ着こうとするのでしょう?
その場所は幸福でしたか? 幸福ではなかったから悩み、苦しんでいるのでしょう?
あなたの中のキリストに身を任せてごらんなさい。。
到着地点に着くことが幸福ではなくて、その流れに乗る事自体が幸福だった。。と分かるでしょう。
そして、ふと、流れ着いた場所は、自分にとって、実に快適な場所であると理解するでしょう。。もうイエスキリストを信じようとするのはやめなさい。。そんなの無理。。自分ができな事を人に勧めるんじゃないよ。。自分の中のキリストに身を任せなさい。。それでいいんです。。それなら実は誰でもできる事。。
努力を辞めて脱力するだけで見えてくる世界。。それが真の救いです。
だから、仏教では、全ての人が救われるのです。
キリスト教は、信じるものが救われる。。イコール信じない者は罰せられる、。という教えでしょう? イエスさんはそんなこと言ってないよ。。イエスさんは、命を捨てざれば、命を得ず。。と言っているでしょう。。
それは、努力を辞めて脱力したら分かるよ。。同じだよ。。
老子さんも同じこと言ってるよ。。
脱力したらわかる。。脱力するとは受け入れることだよ。。お任せすること。。
抵抗という努力は、やってる感があるが、実はやればやるほど不安になるだろ。。
抵抗という努力を捨て、脱力したらそこに道が現れるだろう。その道を進めばいい。。
その道こそ、キリストの示す道です。
何処に繋がっているかなんてどうでもいい。。
その道を一歩進めば。また道が生まれる。。それをまた踏み出せばいい。。
それが楽いいんだ、。