前のブログで、向き合う事とは、相撲でいうがっぷり四つと同じで、ぶつかり合う事で解決につながる場合もあるが、むしろ余計身動きが取れなくなり、解決が遠のく。。
という話をしました。。
では逆に、向き合うがっぷり四つではなく、同じ方向を向く武術。。合気道ではどうでしょうか?
僕は若い頃、空手とは別に、合気武術も習いました。。
その時、合気武術は、和解の武術だと思ったのです。
合気道の技は、 向かい合う相対的立ち位置。。から、同じ方向を向く、統一的立ち位置にへと、分離した相手と和解しながら、一つに繋がって行く武術です、
図のように、合気道の技を見ていると、同じ方向に向ける場面が多いのです。
それは、仲のいい友人と、肩を組んで、廊下を歩くが如くです。
合気道とは本来、植芝盛平氏が、戦う武術を、武は愛なり。。と、
災い転じて福となす。。
自分を殺しにきた奴と仲良くなれる。。
そういう煩悩即菩提を、武術化したもので、合気道は本来祈り🙏なのです。
それを理解してやってる人が少ない証拠は、合気道で検索すると、画像はほぼ全て、相手を豪快に投げ飛ばした写真ばかりです。。
それがカッコいいと思っているのです。
僕なら、この写真の様に、お互いが同じ方向を向いている写真を使いますね。
人間関係のトラブルは、繋がれないトラブルだと言いました。。
繋がれない関係とは、向き合う相対的関係。。
向き合うという事は相手がいるという事になる。
自分以外の他人がいる事を認める事になります。。
だから気を遣わなきゃ行けない。。それが非常に疲れる。。
しかし、愛の武術、合気道は、愛、であり合う。。2人が1人になる事です。
私達は、肉眼では。別々の存在に見えるが、魂レベルでは、いつも繋がっていて、一つの命、一つの呼吸なのです。
それが、武は愛なり。
植芝盛平さんは、それを合気道で、身体ごと理解させようとしたはずです。
別々の存在だと思うから比較が起きる。競争が起きる、上下関係や、都合不都合が起きる。
怒り、憎しみ、妬みが湧くのだと。。
向き合うとは、大好きな人以外では、相対的、つまり、敵対的位置なのです。
それを合気道の技は、ヒラヒラと同じ方向に向けて、敵意を消し、調和へと導いて行く。。
自分を殺しにきた奴と仲良くなる武道。。それが本当の合気道です。
私達は、魂レベルでは、皆、肩を組み、同じ方向を見ているのです。
キリスト教も、神と人間が向き合う関係です。
それは間違いです。
仏教では、私達と仏。如来も同じ方向を向いているのです。
同じ方向を向く事こそ、調和であり、繋がりなのです。
食事でも、向かい合うテーブル席より、同じ方向を向けるカウンター席のが、常連さんは馴染めるでしょ?
カウンター席しかない飲み屋が、いつもはやる理由です。
一体感があるのです。
バイクが徒党を組んで走るのも同様。。