むようのよう【無用之用】
一見何の役にも立たないと見えるものが、実は役に立つということ。 『老子ろうし』や『荘子そうじ』によく登場する、逆説的な理論。 「無用」は、役に立たないこと、使い道がないこと。 「用」は働き、能力。
私達は、生かされている存在である事を忘れているんです。。
だから自分で生きていると思い込んでいる。。
自分で生きているなら、何かの為にと、。目標や目的を持ち。。努力して頑張らないと。。
自分の人生は切り開かれない。。人生が切り開かなければ、幸福を掴む事ができない。。
幸福は掴む物。。
いや、目標や目的を持つ、頑張る奴らに、幸福は皆持って行かれてしまうんだ。。
だから、自分も頑張らなきゃならない。。
意味のある生き方、。役に立つ生き方。。何かの為とか、誰かの為に生きないといけない
と。。他人に評価されない。。評価という幸福が手に入らない。。と。。生きていく為の大義名分を無理矢理創り出そうとする。。
それを作らないと前に進めないと思い込んでいる。。
夢を持て。。という大人も、無用の用を理解していないんです。
夢など要らないんです。。本当は。。
夢が無用な毎日こそ真の幸福です。
しかし、その誤った心が、苦しみを作り、妬み嫉妬を作り出すのであると。。
仏教で言う「色即是空空即是色」。。キリスト教で言う、「命を捨てざれば、命を得ず」
老荘思想の「無用の用」
など、聖者が伝えたい事は。。。
そうではないぞ。。。
自分で生きているのではなくて、生かされているんだ。。
自分で生きてる自己を、手放し、生かされている全体と繋がる命を頂き治せ。。
生かされているがまま生きる事が。。真の幸福なのです。。
その幸福には、大義名分はいりません。。
毎日与えられし出来事を、そのまま受け入れて喜んでください。。
楽しんでください。。
いい事も悪い事も。。全てはあなたの魂を成長させる気づきを促す出来事です。。
あなた自身が希望して呼び込んでいる出来事なんですよ!
いい事悪い事を区別せず。。螺旋階段が、明るい暗い明るい暗いを繰り返しながら上昇⤴️していくが如く。。
自分という自己。。自分で生きていると勘違いしている自己、自我という立場。。
その立場が後付けで作り出した基準。。それが善悪、成功不成功。。幸福と不幸
という相対区別と、相対区別に伴う人類の。分断。。分断に伴う戦争。妬み、嫉妬、怒り💢。争いがあるのです。。
区別は調和を産みません。。
しかし、自己にとって都合の良い事で有頂天に高揚し、自己にとって都合の悪い事が起きれば落胆する。。
その一喜一憂して苦しんでいるのは、自己であり、魂本体ではないという事。。
それに気づきやすい様に、螺旋🧬階段の様な交互な経験を与えられるのです。。
一喜一憂させられているのです。
どちらも本当の幸福ではないだろ?
それに気づく為です。
オリンピックの柔道を見てると分かるでしょう?
金メダル🥇取れば有頂天に高揚。。2回戦で負ければ、泣きじゃくり落胆。。
あれが自己が、柔道をやっているのです。
あれは真の強さではないんです。。自己の強さです。。
私達は生かされています。。
生かされいるまま生きている時間は無心です。。
自分で生きている時間は意識的です。。
無心はイコール🟰無為であり、意識イコール🟰有為です。。
皆さん、、寝てる時間に意識がありますか?
寝てる時間こそ最もよりよく生かされているのです。。
無為無心なのです。。
だから治癒力がもっとも高い。。寝ると治るのですから。。
昨日一日を思い出してください。。
どれだけ思い出せますか?
思い出せる事は、思い切り有頂天に高揚した喜びと、落胆した出来事。。
頭に来た出来事です。。
それ以外の時間は、生かされている時間。。、無為無心の時間です。。
一日のほとんどは、生かされているがまま生きている時間です。。
子供の無邪気、。犬猫の無邪気もそうです。。
子供が犬猫が、何かの為に生きてはいない。。
つまり意味のある生き方、。役に立つ生き方。。親の為にも、。自分のためにも生きていない。。
無為無心、無用の用です。。
無用の用とは、何の役にも立っていない様に見える。。なんの為に生きてるんだろ。。
何の為に生きているのかわからない様な人は、世の中の役に立っていない。。
迷惑ばかりだ。。だから居ないほうが良いと、障害者を殺害した事件がありました。。
しかし、何かの為に生きていないという事は、生かされるがまま生きている、無為無心の人でもあるんです。。
確かに、物質世界においては役に立っていないのです。。
しかし、無用の用である、無邪気な子供は..子はかすがい。。と言います。。
家族を繋ぐ役割を担うのです。
これは、経済的利益を産み出さない障害者や、介護が必要な老人にも言えるのです。。
肉体次元的には、役に立っていない。。、むしろ迷惑ばかりだ。。。
しかし、家族とは無用の用の存在によって繋がれている。。
社会もそうです。
無用の用の人がいるから、社会は繋がるのです。
一つになるのです。
家族に、また社会に、無用の用があるのは必然なのです。
そういう意味で。。無用の用。。
老子荘子さんが、よく使う言葉。。
無用の用。。
役に立たない様に見える人達に、実は助けられているよ!
実は役に立っているんだよ!
無用の用な子供、犬猫、介護が必要な老人、。ボケた老人。。
そういう人を面倒を見る毎日は。。
大義名分を消していく。。。
何かの為に、面倒を見ているのではなくて。。
ただ面倒を見ているのだと。。
その無為無心の心に至るには。。見返りを期待できない人を、面倒見続けるという毎日の経験が必要なのです。
見返りがないなら、無償の愛で、無為無心でやるしかない。。
それは面倒見る力。。。
なんの為にもならないとは、。努力して頑張った見返りがない事をしても仕方ない。。という考え方です。
面倒見る力とは、。ただ面倒を見る事そのものに、自分の魂の成長を感じ、それを喜べる心。。
それは、お釈迦さんの、慈悲心と同様であると。。
神を信じる者は救う。。信じない者はサタン悪魔👿
キリスト教はそうでしょう?
区別は平和を産みません。
仏教は、信じようが信じまいが。。そんな事は関係ない。。
感謝しようがしまいが関係ない。。
死ねば皆仏。。
全ては可愛い息子、娘達である。。
条件なしに。。全てを救う。。というのが仏教です。
いや、最初から救われている事に気づかせる。。という事です。
最初から救われているからこそ、必ず救われる。。それが仏教です。。
迷子になってるだけです。