先日書いたブログ、仏教の死生観から見てもらうとわかり易い。。
皆さんは、善とはなんだと思っていますか? 悪とは?
子供の頃は、人に迷惑をかけるのが悪だと、親には聞いてきました。。
逆に言えば、人の役に立つ事が善?
でも、それでは、役に立つ人間にならなければ。。という不安感、恐怖感が生まれる。。
なれなければ、悪人だと。。
役に立てない悪人ならば、悪人として金儲けしようと、ルフィが現れる。。
大まかに言うと、人の為に生きるのが善で、自分の利益の為だけに生きるのが悪。。
そんな感じが常識になっています。。
しかし、この、善と悪を分ける事自体が悪であるとも言えるのです。
例えば、キリスト教では、信じる者は救われる。。と言います。
しかし、それを言い換えれば、信じない者は救われず、裁かれると言う思考と恐怖を生みます。
つまり、信じる者は救われると言う善と、信じない事を悪と。。分けた思考そのものが、人を過剰な希望と、過剰な不安を生み、不安定な心を生む。。これが、キリスト教系の宗教団体が、人をコントロールして、マインドコントロール。。心を支配し易い思考なのです。
もちろん、イエスキリストが、そういう意味では言ったはずがないのです。
宗教団体が都合よく利用しているのです。
仏教の死生観で述べた様に、悟りの世界、真実の世界には、囚われ、障りがないわけです。。
ですから、善に囚われる事も、悪に囚われる事も、迷いであり、苦しみを生むのです。
また、信じる事に囚われ、信じない事に囚われるのも同様。。
つまり、善悪、、信じる、信じないと言う相対的思考が、既に、囚われ、、迷いであると言う事。。
そして、人の為に生きる事と、自分の為に生きる事。。という2つに分ける思考。。
それも囚われ、迷いなのです。。
だから、老子さんは、無為にして為せ。。。無為自然と言いました。。
親鸞さんの言う、自然法爾。。と、同じ意味です。
お釈迦さんの言う、空になれ。。も、イエスキリストの、御心のままに、。
も同様です。
何かの為に生きるのをやめなさい。。
それは、徳を積む為の善もやめなさい。。そんな打算的善で、徳が積まれるはずが無い。。
人を宗教に勧誘した人数だけ、徳が積まれる?
積んでるのは業です。。わかりますね?
生かされるがままに、命をそのまま、無為。。で行いなさい。。それが1番囚われのない。。
生かされし命そのままに生きる事なのです。。
裸の心です。。
銭湯での裸の付き合いが気持ちい。。
これが、相対善ではない、絶対善です。
絶対善とは、裏側に悪がない状態です。
悟りの世界には、あるがまましかないのです。。
善、悪、信じる、信じない。。人の為、自分の為。。そう言う相対世界は囚われの世界。。
何故、相対的に囚われてしまうか?と言うと、私達が目で見る物質は、10円玉を製造すると、必ず裏表ができる様に、目に見える世界は常に相対的だからです。。
だから目に見える世界に囚われ、全て相対的に捉えて、分けて分析的に捉えてしまう。。
それが囚われ、比較、競争、執着を産んでいくんです。
手を合わす、🙏合掌とは、相対的に捉えて、囚われた思考、認識を、手を合わす事で相殺して、無為自然に戻すメソッドです。
手を合わす。。合掌すると、何故か囚われが消え、スッキリします。。
そして改めて、無為に為すのです。
私達が1日の内で意識されない時間とは、まさに合掌の時間です。
寝ている時は意識がありません。。意識がないから記憶がありません。。
夢を覚えている時間は、意識があるのです。
3歳ぐらいまで記憶がないのも同様。。3歳ぐらいまでは、無邪気。。
つまり、無為にして為す。。まさに絶対善で生きているのです。
意識とは、為に生きる。。という恐怖観念です。
私は、過去のブログの中で、人の為に生きるでも無い。。自分の利益の為に生きるのでもない。。
自分の為に生きる事が同時に、人の為にもなっている様な、そう言う生き方が正しい。。
と、言ってきました。。
本当は、無為自然に生きる事こそ、絶対善です。。と言いたいのですが、それではあまりに、わかりにくい。。と思い、そう言う言い方をしています。
無邪気な赤ちゃんがそうでしょ👶。。
赤ちゃんの笑顔、仕草。。赤ちゃんは無為に笑い、動いている。。
それを見て大人は、満面の笑みになります。。
これが、子供が大きくなり、大人の機嫌を忖度し出して、親に褒めてもらう為。。の行動をし出したらどうでしょう。。赤ちゃんの笑顔には敵わないでしょう。。
そして、自分の親は、満足するかもしれんが、周辺全体を笑顔にする赤ちゃん👶には敵わない。。
絶対的善。。それは、善にも悪にも。。人の為にも、自分の為にも。。成功にも不成功にも。。囚われない、無為な心で生きる事なんです。
難しいですね。。
難しいからこそ、まずは、僕が言う、自分の為に生きる事が、そのまま周りの人の為にもなる様な生き方をする。。
それが一番、自分も周りの人おも、幸福にする術なのです。
それができる様になると、信じるとか、信じない。。という迷い苦しみも消えます。。
最初から信じている世界で生きる事そのものになってくるから。。
私が信じる世界ではないのです。。
信じる心すら与えられているのです。
キリスト教の、信じる者は救われるんだから信じなさい。。という強制感は、宗教ではないんです。
信じなければ裁かれるよ。。。これは怪しい占い師と同じです。
裁かれるのが怖いなら献金すれば救われるよ。。こうなってくる。。
この下の笑顔を、誰かの為に。。と意識して出せますか?
無為自然だから出せるのです。
命そのままにのりだす。。それが祈りの心なのです。