シッタカブッタ。。と言う、仏教を漫画にしたものがあります。。
4コマ漫画でできているんですけど。。とても分かりやすいと言えるでしょう。。
文章にしてみよう。。
「シッタカブッタは、幸福を探しに何年も歩いたが、歩いても歩いても見つからなかった。。
シッタカブッタは休んで考えた。。シッタカブッタは、探すのをやめて、歩く事を楽しみ始めた。幸福は、歩く事そのものにあった」
これが仏教ですね。。
私達の住む肉体次元では、時間が遅く、距離が遠い世界です。。
だからどうしても、時間軸(過去、未来)に囚われてしまい、。
考える事は、過去の後悔と懺悔、未来の希望と成功です。。
今を見ないのです。。
ですから、とにかく未来の希望と成功の為に、努力する。。。
誰よりも努力に時間をかける事で、何かがあるんじゃないか?
成功があるんじゃないか? 幸福があるんじゃないか?。。
と、何年も幸福を探し続けるのです。。
幸福が見えて来ないのは、自分の努力が足りないからなんだと。。
さらに努力を積み重ねる。。
しかし、どうにも行き着かない。。
幸福はどこにあるんだろう。。行き着いた気がしたが、すぐに飽きる。。
キリが無い。。
これは本当の幸福では無いのか?
いつたどりつけるんだろう。。
僕も、そう、思っていました。。
しかし、ある日。。
道元禅師の、只管打座(しかんたざ)という文字が、凄く大きく見えたんです。。
これは何かあるぞ!。。と。。
それで只管打座とは何だろう?
と、調べてみたんです。
そしたら、座禅はただ座れ。。と。。。
ただ座る事そのものが、仏と同じ姿であり、修行であり証なのです。。と。。
座禅を🧘♀️したから、どこかに行ける訳じゃない.。。
修行したから悟れる訳じゃない。。修行は悟りの手段では無い。。
座禅に意味など無い。。
意味の無い座禅こそ座禅なのだと。。
意味付けを捨て去れば、仏と同じ心となる。
座禅を手段に、何か特別な場所に辿り着ける訳でもない。。
ただ座る、。目的も持たずにただ座る。。
それが座禅なんだ。。
この内容は、シッタカブッタに似ているでしょう?
その瞬間、オセロの黒が、全部白に🤍ひっくり返る衝撃を受けたのです。。
幸福になる為、努力して来た。。
人間の生きる目的は、幸福になる事だと思って来た。。
しかし、幸福は、努力の果てにあるのではない、。
今、ここにあるのだ。。と。。
健康の為に歩くのではないし、競歩の練習の為に歩くのではない、。
歩く事は、幸福になる為の手段では無い。。
そもそも幸福ってなんだろう?
仏教でも、悟りの境地を、寂静無為(ジャクジョウムイ?)
現代訳すれば、静寂で、為の無い世界。。
老子さんの、無為にして為せもそうですし、仏教の無碍自在(ムゲジザイ)。。。
または無為自然(ムイシゼン)と言う言葉もそうです。
悟りの世界の幸福とは、幸福になる為の努力によって、到達できる夢の世界では無いのです。
天国に行く為、地獄に落ちない為に、躍起になって信仰の様な振りをしてる人。。
金持ちになる為、成功する為。。
なんでも為がある。。為とは、未来のある日の達成の為です。。
今じゃ無いんです。。今に為は要らないでしょう?無為なんです。
無為とは、求めるのではなく、受け入れる心です。
無心とは受け入れてる心の自覚です。
その努力で、天国に行けるわけじゃ無いよ!
むしろ、只管打座。。ただ座る事。。ただ歩く事。。その中に最初から与えられた幸福があるんだよ!
道元さんは、同時に、身心脱落、脱落身心と、言っていますね?
幸福になろうと努力する事、。頑張る事すら辞めてみなさい。。と。。
心も身体も脱力してごらんなさいと。。
ほら、最初から幸福が与えられている事が見えるでしょう?幸福とは、特別なものじゃ無いよ。。その幸福に乗ってごらんよ。。快適でしょう?
時間軸に囚われる人間は、遠くばかりを見ているから。。自分の足元に幸福がある事に気づけないんだ。。
幸福というメガネ👓を、頭にかけている事がわからないんだ。。
シッタカブッタ的に言えば。。幸福を探すのを辞めなさい。。
幸福は今、歩いているそのものの中に在るよ。。
私達は、こうなるのが幸福であると、条件付け、意味付けして創り出す事で、実は反対側に、
その条件を満たせない場合を不幸。。と、同時に創り出し、その幸福の裏側である不幸に怯えているのです。
私達の怯える不幸とは、私達が創り出した幸福の裏側なのです。。
善に囚われず、悪に囚われず。。
幸福に囚われず、不幸に囚われず。。
成功に囚われず、失敗に囚われず。。
どちらかに寄る度、一喜一憂するのではなく。。
どとらでも良いし、どちらも良いよ🙆
と言う境地。。
どちらも魂の肥やしになる、。
受け入れてみれば、有り難い事ばかりだよ。。
一喜一憂に苦しまない。。安心立命の境地こそ永遠の幸福なのです。
いつでも何処でも今。。に、感謝できる。。それが安心立命です。。
仏教では、中道とか中庸。。と言う言い方。。
これは、真ん中辺と言う生き方ではなく、囚われの無い生き方を言うのです。
シッタカブッタは、それを教えてくれるのです。
それは、今。。ここに過去も未来もあるし、幸福もあるよ。。
過去や未来ばかり見なさんな!
今を幸福だと思えない者には未来も幸福では無い。。
今を幸福だと思えない者は、過去は後悔と懺悔の塊となる。。
いま、ここが幸福だと解れば、即、過去や未来も幸福になります。。
今を幸福だと思える心が与えられているのです。。
どんな目に遭っていようともです。。
ですから、、以前も言いましたが。。
あの野郎、ぶち殺してやりてえ。。でもありがとう😭。。
と、嘘でも言い続けていると。。
なんとなく、シッタカブッタの境地が見えて来ます。。