心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

仏教解釈 11 幸福とは何か?

シッタカブッタ。。と言う、仏教を漫画にしたものがあります。。

4コマ漫画でできているんですけど。。とても分かりやすいと言えるでしょう。。

文章にしてみよう。。

「シッタカブッタは、幸福を探しに何年も歩いたが、歩いても歩いても見つからなかった。。

シッタカブッタは休んで考えた。。シッタカブッタは、探すのをやめて、歩く事を楽しみ始めた。幸福は、歩く事そのものにあった」

 

これが仏教ですね。。

 

私達の住む肉体次元では、時間が遅く、距離が遠い世界です。。

だからどうしても、時間軸(過去、未来)に囚われてしまい、。

考える事は、過去の後悔と懺悔、未来の希望と成功です。。

今を見ないのです。。

 

ですから、とにかく未来の希望と成功の為に、努力する。。。

誰よりも努力に時間をかける事で、何かがあるんじゃないか?

成功があるんじゃないか? 幸福があるんじゃないか?。。

と、何年も幸福を探し続けるのです。。

幸福が見えて来ないのは、自分の努力が足りないからなんだと。。

さらに努力を積み重ねる。。

 

しかし、どうにも行き着かない。。

幸福はどこにあるんだろう。。行き着いた気がしたが、すぐに飽きる。。

キリが無い。。

これは本当の幸福では無いのか?

いつたどりつけるんだろう。。

 

僕も、そう、思っていました。。

しかし、ある日。。

道元禅師の、只管打座(しかんたざ)という文字が、凄く大きく見えたんです。。

これは何かあるぞ!。。と。。

 

それで只管打座とは何だろう?

と、調べてみたんです。

 

そしたら、座禅はただ座れ。。と。。。

ただ座る事そのものが、仏と同じ姿であり、修行であり証なのです。。と。。

座禅を🧘‍♀️したから、どこかに行ける訳じゃない.。。

修行したから悟れる訳じゃない。。修行は悟りの手段では無い。。

座禅に意味など無い。。

意味の無い座禅こそ座禅なのだと。。

意味付けを捨て去れば、仏と同じ心となる。

座禅を手段に、何か特別な場所に辿り着ける訳でもない。。

 

ただ座る、。目的も持たずにただ座る。。

それが座禅なんだ。。

 

この内容は、シッタカブッタに似ているでしょう?

その瞬間、オセロの黒が、全部白に🤍ひっくり返る衝撃を受けたのです。。

 

幸福になる為、努力して来た。。

人間の生きる目的は、幸福になる事だと思って来た。。

 

しかし、幸福は、努力の果てにあるのではない、。

今、ここにあるのだ。。と。。

 

健康の為に歩くのではないし、競歩の練習の為に歩くのではない、。

歩く事は、幸福になる為の手段では無い。。

そもそも幸福ってなんだろう?

 

仏教でも、悟りの境地を、寂静無為(ジャクジョウムイ?)

現代訳すれば、静寂で、為の無い世界。。

老子さんの、無為にして為せもそうですし、仏教の無碍自在(ムゲジザイ)。。。

または無為自然(ムイシゼン)と言う言葉もそうです。

 

悟りの世界の幸福とは、幸福になる為の努力によって、到達できる夢の世界では無いのです。

天国に行く為、地獄に落ちない為に、躍起になって信仰の様な振りをしてる人。。

金持ちになる為、成功する為。。

なんでも為がある。。為とは、未来のある日の達成の為です。。

今じゃ無いんです。。今に為は要らないでしょう?無為なんです。

無為とは、求めるのではなく、受け入れる心です。

無心とは受け入れてる心の自覚です。

 

その努力で、天国に行けるわけじゃ無いよ!

 

むしろ、只管打座。。ただ座る事。。ただ歩く事。。その中に最初から与えられた幸福があるんだよ!

道元さんは、同時に、身心脱落、脱落身心と、言っていますね?

 

幸福になろうと努力する事、。頑張る事すら辞めてみなさい。。と。。

心も身体も脱力してごらんなさいと。。

 

ほら、最初から幸福が与えられている事が見えるでしょう?幸福とは、特別なものじゃ無いよ。。その幸福に乗ってごらんよ。。快適でしょう?

 

時間軸に囚われる人間は、遠くばかりを見ているから。。自分の足元に幸福がある事に気づけないんだ。。

幸福というメガネ👓を、頭にかけている事がわからないんだ。。

 

シッタカブッタ的に言えば。。幸福を探すのを辞めなさい。。

幸福は今、歩いているそのものの中に在るよ。。

 

私達は、こうなるのが幸福であると、条件付け、意味付けして創り出す事で、実は反対側に、

その条件を満たせない場合を不幸。。と、同時に創り出し、その幸福の裏側である不幸に怯えているのです。

 

私達の怯える不幸とは、私達が創り出した幸福の裏側なのです。。

善に囚われず、悪に囚われず。。

幸福に囚われず、不幸に囚われず。。

 

成功に囚われず、失敗に囚われず。。

どちらかに寄る度、一喜一憂するのではなく。。

 

どとらでも良いし、どちらも良いよ🙆

と言う境地。。

どちらも魂の肥やしになる、。

受け入れてみれば、有り難い事ばかりだよ。。

 

一喜一憂に苦しまない。。安心立命の境地こそ永遠の幸福なのです。

いつでも何処でも今。。に、感謝できる。。それが安心立命です。。

 

仏教では、中道とか中庸。。と言う言い方。。

これは、真ん中辺と言う生き方ではなく、囚われの無い生き方を言うのです。

 

シッタカブッタは、それを教えてくれるのです。

それは、今。。ここに過去も未来もあるし、幸福もあるよ。。

過去や未来ばかり見なさんな!

今を幸福だと思えない者には未来も幸福では無い。。

今を幸福だと思えない者は、過去は後悔と懺悔の塊となる。。

 

いま、ここが幸福だと解れば、即、過去や未来も幸福になります。。

今を幸福だと思える心が与えられているのです。。

どんな目に遭っていようともです。。

 

ですから、、以前も言いましたが。。

あの野郎、ぶち殺してやりてえ。。でもありがとう😭。。

と、嘘でも言い続けていると。。

なんとなく、シッタカブッタの境地が見えて来ます。。