心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

仏教解釈③悪人ばかりの家は喧嘩無し

キリスト教では、善と悪を分け、善人こそ、天国で、悪人は地獄。

と、。善人になる事を目標とする。。

悪人である事を恐れる。

しかし、仏教はもっと奥深いのであります。。

 

善人ばかりの家は、🏠喧嘩が起きる。。

悪人ばかりの家は、🏠喧嘩が起きない。。というのです。。

 

親鸞聖人さんの有名な言葉。。悪人正機説。。

下の写真だが、直訳すると、善人でも救われるんだから、悪人は救われるに決まっている。。

 

ここで言う善人、悪人とは、キリスト教で言う善人悪人とは、解釈の深さが違うのです。

先ほどの、善人ばかりの家では喧嘩が起きるが、悪人ばかりの家では喧嘩が起きない。。

この例を考えてみよう。。

 

僕の子供の頃。。近所のお母さん👩同士の会話は、実に悪人同士の会話でした。。

「この度は、私の落ち度で本当にごめんなさいね🙏。。」

「いえいえ、私の方こそ、気づけなくてごめんなさいね🙏」

 

こういう会話は、よく聞かれたんです。

今回のトラブルで、悪いのは私の方です。。

と、双方が思うのです。

 

これは、言い換えると、2人とも自分を悪人であった。。と、顧みて、自分を反省できる悪人同士であった。。という事です。

だから喧嘩にならないのです。

昭和の近所付き合いは、こうして調和していました。。

 

しかし、この中に

もう1人、私は正しい。。私に落ち度は無い。。

という人。。善人がいたらどうでしょう。。

 

善人は、悪人を責めるでしょう。。

双方とも善人だったらどうですか?

 

悪いのはお前。。いや、悪いのはお前だよ。。

これが喧嘩です。。

喧嘩になるきっかけとは、明らかに間違えてる人が、それを認めない。。謝らない時に起きるのではないでしょうか?

以前、テレビでやっていた。

エホバの証人の、忌避。。

 

エホバの証人の教義を信じ従う者は善人、。従わない者を悪人と区別し、悪人を仲間はずれにする忌避。。これはいじめですよね。。

これが宗教であるはずがない。。

宗教とは調和です。。

これは調和を乱すもの、。パワハラです。

 

教義を信じ、守っている人。。善人がいるからこそ、喧嘩が起きるのであって。。

正しいと思う者は、間違えている者を成敗しようとする。。

それが喧嘩です。

教義を信じない悪人がいるから喧嘩が起きるのではないのです。。

 

だから、仏教では、自分が正しいと慢心勘違いし、正義感ぶっている者こそ、仏から遠い。。

そういう誤った善人こそ。。争いを起こし、不調和を起こしているのだ。。というのです。

 

そんな者でも救われる事が約束されている仏教であるから。

謙虚に、自分が間違っている。。自分はなんてダメ👎なんだ。。と、自分の腹黒ぶりを認め、嘆き、反省できる者は、争いを納め、調和をもたらす。。

という意味で、悪人は善人より仏が救いやすい。。だから必ず救われます。。

 

悪人こそ救いの対象である。。というのです。

自分が悪人だと認める事ができる、その心こそ、仏の心への扉🚪が開くのです。

調和への道です。

 

自分が悪人だと認める事ができれば、その先には、善人悪人という区別などない。。と、解る境地、新境地が待っているんです。

 

善や悪があるのではない。。善に囚われる人と、悪に囚われる人がいるだけ。。

善にも悪にも、囚われない心に行き着いた時、本当の幸福。。善人も悪人もいない。。あるがままな菩提心に元ずく世界が🌎展開するのです。

 

親鸞さんは言います。。

私達は、阿弥陀如来から見れば、全員悪人なんです。。

しかし、それは悪い奴という意味ではなく、善悪に囚われ迷っている者という事。。

迷っているだけなんです。迷子達です。

 

溺れている事を自覚できた時、初めて、手を差し伸べている存在が最初からいた事に気づく。。それが阿弥陀如来。。南無阿弥陀なのです。

救ってくださいというお願い🙇‍♀️じゃないんです。

 

溺れている事に気づかないから、阿弥陀如来が手を差し伸べてくれている事にも気づけないだけ。

 

気づいた時、笑顔で手を差し伸べられている事に気づいた時、心の底から湧き上がるのが南無阿弥陀なのです。

 

自分が悪人だと認められる悪人は、自分が迷子である事を自覚した人達。。

迷子である事を知ったならば、自分の家を🏠探そうとするでしょう?

本当の家を。。自分の故郷を。。

そんな時、仏教と縁があるんです。

 

自分は完璧で.落ち度が無い。。と、慢心驕りが強い者は、まだ自分が迷子である事にも気づいていないのです。

 

僕のブログを楽しみに読んでいる人が、結構いると知りました。。

嬉しいです。。

僕のブログを読んでいる人は、迷子を自覚している人です。

僕のブログの中に、本当の故郷へ戻る方法のヒントがあるからです。

 

その悪人全てを救う。。と、約束しているのが阿弥陀如来なのです。

善人しか救われないキリスト教。。

悪人こそ救う仏教。。

 

救われようと善人になろうとすればするほど。。エホバの証人の様に、忌避なんて事が起きるんです。

善人は争いを起こす。。

僕はいつも、善人になる必要は無い。。と言います。

むしろ悪人になる事なんです。

悪人とは、自分が悪い。。汚いと、自分を嘆く事ができる人です。

 

理由がお分かり頂けたでしょうか?