ニュースを見ればろくでもないニュースばかり。。
全く人間とはどうしようも無い生き物だ。。
そう、真面目な人ほど頭を抱えてしまうのです。
では、ろくでもなく無い世の中とはどう言う世界でしょう?
そんな理想郷が存在するのでしょうか?
多くの宗教団体はそれを勝手に妄想して、実現させようとするのです。
ろくでもない人がいなくなる事が平和? ではそう思っている自分は、ろくでもない人間ででは無いと、言えるでしょうか?
親鸞さんに言わせれば、私達人間は全て、罪悪具足の凡夫であると言うのです。
世の中には、ろくでもない人しかいないのです。
あいつはろくでもない奴だ、。。と、思っている自分も、ろくでもないのです。
似たり寄ったりです。
ろくでもない奴しかいない世の中? そんなの悲しい😭。。
しかし、親鸞さんは奥深いのです。
世の中には、自分がろくでもない奴だと気づいている人と、自分は優秀で、ろくでもない奴とは違う。。と、成果主義で結果を出して慢心している人とがいるのです。
親鸞さんは、自分がろくでもない奴だと気づき、嘆いている人を善人と言い、自分がろくでもない奴だと気づいていない人を悪人だと言うのです。
もちろん、僕達の思う悪人、善人という分け方とは違います。
善人がいて悪人がいる訳じゃない。
全ての人は、罪悪具足の凡夫なのですから。。
自分がろくでもない奴だと、気づいて認める事ができれば、その次の扉🚪が開きますよ!
という事です。。
ろくでもないじぶんは、そのろくでもないままで、悟る事ができる
自分を嘆いたまま、悟る事ができる。
これが、煩悩そのままに、真の幸福,菩提心を獲得する事ができますよ!
煩悩を断ち切る事などできません。。煩悩を断ち切る必要もありません。。
煩悩がある人が、悪人で、煩悩がある人が善人ではありません!
私達が全て、煩悩具足の凡夫なのです。
だからありがたいんです。
煩悩即菩提。。これがお釈迦さんが一番伝えたかった事です。。
私達は、煩悩だけで生きているんじゃないですよ!
全体を忘れ、生かされている心を忘れ、煩悩だけで生きてると思うから、その煩悩を満たそうとする野心家が生まれ、逆に煩悩があるから、苦しいんだ、世の中が汚れるんだ、。と、煩悩さえ無ければ。。と。。難行苦行で、煩悩を断ち切ろうとした、修行僧がいたのです。
でも、どちらも迷いなんです。
私達は、本当はろくでもない、素晴らしき世界に住んでいるのです。
素晴らしき世界の住民が、煩悩を使って生きているのです。
煩悩は道具です。。
肉体を維持する自己保存欲です。
その事に気づいていく事。。
自転車🚴♀️は、最初、自分の力によってしかこげないと思い込んでいるうちは乗れない。。
重力があるから乗れるんだ、。と、体が覚えていく訳です。
重力に、身を任せれば良いんだと分かる。。
泳ぐのもそうです。
最初は、自分の力のよってしか泳げない。。と、思っているうちは泳げない。。
しかし、その間違いを、繰り返していくうちに、
人間は水に浮くんだ。。浮力に身を任せれば良いんだと、身体が理解する。。
私達が意識できる事とは、自分に都合の悪い事。。または有頂天に成る程、自分に都合のいい事です。。体で言えば、体を意識する時は、体調が悪い時、悪い場所しか意識できません。。
意識される事とは、調和を離れた事柄なんです。
不調和な瞬間です。。
調和とは、重力に、または浮力にお任せした時間です。
調和とは、生かされし力にお任せして疑わない状態です。
これが無心なんです。
絶好調という感覚も、意識されるという事は、行き過ぎた興奮状態なんです。
絶好調だと意識できた時、やり過ぎて怪我をしてしまう。。
そういう事あるでしょう?
大阪商人の、ボチボチでんなあ。。
そのくらいの、意識されない心地よさ。。が、調和の中で生きている瞬間です。
寝ている時間は、意識がない。。それはイコール、一番宇宙と調和した瞬間なのです。
私達は、ろくでもない奴だと、自分に気づいた瞬間から、生かされし、お任せしている素晴らしき世界の住民である事を知るのです。
自分で、自分の力で、自転車に乗るんだ。。泳ぐんだ。。
自分が自分が。。このこころがろくでもないのです。。
自転車で何度も転び、力一杯手足を動かしても浮かない事を経験しているうちに、自分のろくでもない心に気づく。。そして嘆く、そして生かされし世界に気づくのです。
煩悩即菩提。。
ろくでもない素晴らしき世界。。
そうすると、ろくでもない人類も、可愛く見えてきます。