心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

浄土真宗(親鸞)が、戒名を付けない理

僕は仏教が好きで、仏教に救われた。。という自覚があります。

しかし、お釈迦さんは、いろんな人に、いろんな立場から、その人のレベルに合わせて、教えを説いていた為、7000種類あると言われるお経も、いろんな次元で解かれていて、どれがお釈迦さんの本当にいいたかった事なのか?

と、思うほど違う訳です。。

しかし、本当にお釈迦さんが教えたかった事。。それを感知し、理解して、説いている歴史上の宗祖、、僕の理解でのナンバー1。。それは親鸞さんです。

2位が道元さんです。

 

親鸞さんは、宗祖の中で、初めて奥さんを持った人です。

それまでのお宗祖は、愛欲という欲望を起こす。。それは戒律を犯すとして、嫁を持たず、高野山や、比叡山の、真言宗や天台宗の修行道場でも、女人禁止で、女性は入れなかったのです。

女性がいると、愛欲という欲望を起こす。。戒律を守るのが仏教?という長らくの誤解。。

その誤解への囚われ。。執着。それが親鸞さんの師匠、法然さんより前の宗祖。。の間違いだったのです。

欲望、煩悩があるから苦しみ、迷いがある。。その誤解。。が、難行苦行で、自分の中の欲望、煩悩を断とうと、躍起だったのです。

死んだ人に付ける戒名とは、仏教の厳しい戒律を守ります。。という約束の名前です。

 

親鸞さんの師匠、法然さんが、初めて、それは間違いだ!

と、説いたのですが、当時の仏教界では、戒律を守る事、難行苦行で、自力(聖道門)で、煩悩を断つのが仏教であり、僧侶である。という修行である。。という囚われの中で、受け入れられず、低く見られたのです。

しかし、人間の苦しみは、煩悩が悪いからではない。。煩悩があるまま悟ることができる。

いや、煩悩があるからこそ、それを道標として、悟りを理解できる。。

当院のお客さんで、僕に、あるがまま?とはどういうことですか?

と、聞いた人がいるが、あるがままとは、煩悩があるまま生かされてる喜びを感知した心。。自然と調和した心

であり、煩悩のない状態では無いのです。

 

「煩悩即菩提。。煩悩はそのまま悟りに入れ替わります。

煩悩は断ち切るものではなく、入れ替えるもの。。転観するものです。

合気道の創始者、植芝盛平さんも、武は愛なり。。と、自分を殺しに来た人の心と調和(愛)

させる武術。。と言いました。。これも法然さん、親鸞さんと同じ事です。

人を殺そうとした心が悪いんじゃない。。その心を断つことなどできない。その心を、愛の心に転観する事はできるんだ。。

水に温度を与えると、水蒸気(空)に転観できます。

そんな感じ。。

肉体次元で、目に見えるものは全て、相対的です。。

水蒸気は、空気に溶け込み調和するでしょう?

その後、雲になって雨を降らしたり、私達の呼吸の中に入り、体内に水分を与えてもくれます。いかようにも姿を変え、調和、共存しているのです。

私達が肉体を持って生きる以上。。欲望、煩悩は必要です。欲望がなければ、肉体を維持する事ができません。。

だから欲望、煩悩はあって良いのであって、それを断ち切るのは間違いなんです。

しかし、私達の心は2段階で、あるがままに、大自然の法則と調和し、法則に生かされた真の心と、肉体に付随した自己保存意識があるのです。

あるがままな心が、太陽🌞だとしたら、自己保存意識は、太陽の前を遮る雲です。

 

例えば、包丁🔪という道具。。

これをあるがままな心が、道具として使えば、料理を作ることに使うが、自己保存意識が包丁を使えば、自分の領土を犯す人殺す事に使うでしょ?

煩悩、欲望とは、道具です。。その道具が悪いんじゃなくて、その道具を使う心に問題があるのです。

爆薬もそうです。

あるがままな心が爆薬を使えば、トンネルを掘ることに使うが、自己保存意識が使えば、自分の領土、食べ物、資源を増やす為に、人を殺す。。

 

また違う例でいうと、怪我するとはどういう事?

自転車🚴‍♀️で転んで怪我をする。。

車で🚘事故して怪我をする。。

怪我とは、怪しい我と書くんです。

つまり、怪我をする時とは、あるがままな心ではなかった。。という事が理解できる道標になっているのです。必要なものです。

交通事故をした事がある人、、その時平常心でしたか?

イライラしていませんでしたか? よそごと考えていませんでしたか? 慌てて前の車に嫌がらせしていませんでしたか?

自転車で転んだ怪我をした。

しかし、その経験は、身体にたくさんの情報を与えるんです。

スポーツで怪我した人もそうです。

怪我できたからこそ、自分があるがままに生きていない事に気づけるのです。

そして、自己保存意識を改め、転換して、あるがままな自分を知る事ができる。。

 

煩悩、欲望があるから苦しみがあるのではない。。

煩悩、欲望は肉体を持ち生きていく上で必要なもの。。道具です。

しかし、その道具を、あるがままに使うのか? 自己保存意識が使うのか?

が問題、。

しかし、自己保存意識で欲望を動かせば、怪しい我が、大自然と不調和、不協和音を起こし、

怪我をさせる事でブレーキをかけさせるのです。

これは、体の怪我もそう、病気もそう、悩み、苦しみもそうです。

そんな時に、自己保存意識が強すぎて、あるがままな全体意識を忘れ、自分勝手な意識で動いていた事に気づく。。

そして、それを常に、やらせて見守ってくれてる存在があります。。

自分で(自力)でやるのではない。。阿弥陀如来(他力)の力により、あるがままに誘導され、その過程で、自己保存意識で欲望を動かしていると怪我しますよ!という体験をさせてくれて、反省、転換を常に促されているのです。

阿弥陀如来にとっても、迷える人間を、あるがままに導くのに、煩悩、欲望がある方が便利なのです。

教えやすい、伝えやすい。。

これが自力(聖道門)仏教から、他力(浄土門)仏教への、移行。転換なのです。

 

お釈迦さんが、本当に伝えたかった事。。

それが親鸞さんが言うように、大無量寿経に、書かれている内容。。他力の中で生きなさい。。他力こそ正しい仏教です。。という事なのです。

これを、死ぬ直前に説いた。。

何故かと言えば、他力という教えは、深くて難しいから、誤解されておかしい事になると、お釈迦さんは思っていたのでしょう。

 

実際、他力を理解できない人は。他力本願という、低い次元で捉えて、他力仏教を誤解して、低く見ています。

でもね。。他力仏教正しさを、心の底から受け入れて感謝できた時こそ、悟りの扉🚪を開いた瞬間なのです。

さあ、長くなりましたが、浄土真宗、親鸞さんが、戒名をつけない理由。

 

それは、煩悩があるがままに悟る事ができる。。その尊さ。

他力(阿弥陀如来)の光によって、水から水蒸気に転換できる事。。

いや、煩悩があるからこそ、怪我もできるし、怪我をすれば、自分の心の使い方に間違いにも気付ける。

そういう波の上に🌊乗っていた。。

煩悩を、自分の心を抑制して、難行苦行で断ち切るのが修行ではない。。

煩悩を断ち切るという約束、戒律を守る事が、悟りではない。。

戒律は守るものではなく、欲望を使う心を、自己保存意識から、あるがままな心。。それは他力を受け入れた心、疑いのない心に、転観していく事。。

それを繰り返していけば、自然と、戒律を犯さない、あるがままな本当の自分がいる、在る事に気付けます。。

だから、戒律を守る。。という約束の名前、戒名は要らない。。

 

そのかわり、法を依所として生きています、生きていきます。。

というあるがままに生きていきます。。という宣言、法名をつけるのが、浄土真宗です。

 

だからね、戒名なんているのか?

そう思う人多いですね!

これが答えです。

要りません。

戒名がないと、あの世にいけません、。なんて事を言う葬式仏教坊主がいたらこう言ってやればいい。。

あなたは、親鸞さんの、教行信証という本を読んだ事ありますか?

と。