心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

松陰の、暗きは月の光かな。。

仏教では、松陰の、暗きは月の🌕光かな。。という言葉があります。。

心優しい人程、。素直な人ほど、自分の腹黒さを認め、嘆いています。

 

当院に来る人は、心優しい良い人ばかりです。。

優しくて素直だなあ。。と、思い、あなたは心が綺麗だ。

と、言うと、「いや、私、猫🐈被っているだけで、実はとても腹黒いんです」

 

そう言う人が多いです。

昨日もそのやり取りがありましたね!

でもね。。

 

そう思える事は、それを認めているという事でしょう? それが素直で謙虚なんです。。

傲慢な人は、自分の腹黒さを認めないんです。。

認めなくないから、他人のせいにする。。世の中のせいにして、自分は正しい。。間違えてるのはアイツだし、世の中なんだ。。

と、傲慢、慢心する人。。ホリエモンとか、良い見本でしょ?

あの人が自分の反省してるの見たことない。

いつも人の悪口でしょう。。

あー言う、俺は正しい、。俺は悪くない。。と。。自分の腹黒さを認めない人こそ、善人の様で善人でない。。

自分は腹黒いと、認めて嘆いている人は、悪人の様で悪人でない。

 

親鸞聖人は、これを、悪人正機説。。という言葉で示していますね。。

「善人が救われるんだから、悪人は救われるに決まっている」

最初見た時、文章の誤字なんじゃないか?。。と、思いました。

 

長らく仏教では、戒律を守る事が善であり、戒律を守らない事が悪だと。。

だから禁欲し、戒律をしっかり守った、善人こそ救われるのであって、戒律を守らない悪人は救われない。。

と、因果の道理に従い。。〜だからこうなる。。〜だからこうならない。。

と、相対的な考え方をしていた。。

今のキリスト教もそうでしょ。。

信じるものは救われるが、信じない者は裁きを受けると。。

 

でも親鸞さんは、お釈迦さんはそんな事を言ったんじゃないと。。

善人と悪人がいるんじゃない。。

肉体を持つ私達は全て、煩悩(欲望)を持つ、煩悩具足の凡夫であると。。

それを生かされている。。つまり他力によって生かされてる事を忘れて、自力、自分の力で生きている。。人生を切り開いて来た.という慢心が、生かされている他力の、天と地を結ぶライン上に心も身体も立てていないだけ。。

ズレてる。。ピントがズレた分、影ができているのです。

 

太陽☀️や、月🌕の光🌕が、真上から当たれば、影はできないが、斜めから当たれば自分の身体が壁となり、影ができるでしょ? 闇ができる。。

 

その影こそが、闇こそが、自分の他力に生かされる事を受け入れず、自分の力で、自力で生きて成り上がってやるんだ。。

という、生かされる他力の心と、自分で生きてる自力の心。。この二つの心のピントが合っていない。。その分、真っ直ぐ立つ事ができず、太陽や月の🌕光を斜めから浴びてしまうんです。

その自分の立ち位置の間違いにより、自分で影を創り、そしてその影に怯えて、その影を見て、自分を腹黒いと、嘆いているのです。

それは、生かされている命を思い出し、自分で生きてる慢心と、入れ替えていく。。頂き直していく道です。。

病気が検査で見つからないと、治療が始まらないのと同様。。

 

自分は腹黒いんじゃないか? 性格悪いんじゃないか?。。と、気づき、それを認めた時から、ではどうしたら治るんだ?という探究心が出てくる。。

そんな時のタイミングで、このブログを読んだり、僕の様な、先に、その道を歩んでいる先輩と、縁あって出会う仕組みです。。

 

仏教ではいうんです。。親鸞さんの浄土真宗においては、自分が腹黒いんじゃないか?

見苦しい心を持ってるんじゃないか?  と、自分を嘆き始めたら、仏教の扉が開いたのです。。と。。

何故なら、自分の影という罪、煩悩がはっきり見えて来た!という事は、それだけ月の光🌕が強く当たっているからですよ!

晴れの日のが影ははっきりするし、曇りの日は、影ができないでしょ?

自分の腹黒さを、認めざるおえないほどはっきり見えて来た。。

それは、阿弥陀如来の、、無量、無限の光が、強く当たり始め、届き始めた。。という事です。

だから親鸞さんは言うのです。。

自分が腹黒いことにも気づかず、俺は優秀で、火の打ちどころの無い人間だ。。なんて思い上がり、自分の力と金さえあれば。なんでも実現できるなんて思ってる、偽善人が救われるんだから。。自分はどうしようもない腹黒い人間だ、。と、自分を嘆く、偽悪人は、救われるに決まっているだろう、。というのです。

 

当院に来るお客さんは、素直で優しい。。自分の腹黒さを嘆いている人ばかりです。。

でもね。。大丈夫🙆‍♀️なんですよ。。

それは予定通りであり、想定内なんです。

自分の腹黒さに気づいて認めたのであれば、その腹黒さを隠そうとか。。消そうとかするんじゃなくて、その腹黒さを長所に変える事ができるんです。

転換するんです。

それは、太陽や月の🌕真下に立つ事です。

真下に座る事です。

 

真下に座る修行が座禅なのです。

真下に立つ修行が、身、口👄、意の、三位一体の行なのです。

 

それは、自分で生きてるという慢心を、一度空(くう)にお返しして、生かされる命を頂き治す。。その宣言、決意が。南無阿弥陀という念仏だと、思えば良いでしょう。

それを繰り返す度に、太陽や月の真下に立ち、座る事ができる様になり、それだけ自分が創り出す闇、影が減っていくでしょ?

減った闇、影の分、腹黒さは、光そのままに働く事ができる心に転換される。。

腹黒さは、そのまま生かされし、正しい煩悩に頂き直す事ができるのです。

お釈迦さんは言うのです。。

 

煩悩即菩提。。

煩悩はなくなりません。。

煩悩あるまま悟る事ができる。。

煩悩が悪さをするのでは無いのです。。

 

煩悩を操る、操縦者の方に闇があるのか?ないのか?の違いです。

影という闇の心。。自力に操られた煩悩は、自分の為だけに横取りを始めるし、影が消えた光に操られた煩悩は。調和を創るのです。

煩悩は必要だからあるんです。

 

雨が☂️降らなきゃ虹🌈は立たない。。

ノーレインノーレインボー

嘆きたくもなる腹黒さ(煩悩)があるからこそ、それを虹という🌈(菩提心)に転換、昇華する事ができるんです。

例えば、僕の場合。。

高校生の頃、空手で股関節を痛め、いろんな整体に通ったが、治らない。。。

そこである日。腹を決めて、自分で治すと決めた。

その日から整体の勉強が始まり、今日に至るわけです。

そう言う意味でも、整体が僕を治してくれなかった事が、今の僕の為になっいるんです。

 

皆さんにも、そう言う事、あるはずです。

雨降って地固まる。

 

それが仏教なのです。

僕が整体のブログに仏教を解く理由。。

それは、月の真下に立てるバランス感覚と共に、月の真下に立てる心の在り方も、同時に必要だからです。