大道廃れて仁義あり。。
これは老子さんが残したとされる言葉です。
どういう事でしょうか。。
きっと、こういう事が言いたかったんだろう。。と、僕の解釈でお伝えします。
「私達は、生まれる前から空(クウ)、又は、道(タオ)という宇宙の無限で掴みどころの無い波動。。光、宇宙の法則によって生かされ、活かされている存在であるのに、その空に、又は道という波に乗る事を忘れ、儒教の様に、年上を敬えだとか、あーすべき、こーすべきと、儒教の仁義の名の下に、私達の生命を萎縮させ、不自由にしてしまい、殻に閉じ込めた囚われの毎日である。。
そんな形式、仁義などという、後から人間が、人間の都合、国の強度の都合により作り上げた概念が、幅を利かせ、本来の大道。。空、道という大法則、波動、光に乗って生きる。。
生かされる幸福を忘れてしまった。。
そんな、後から作り上げた固定概念は、手放してしまった方が、私達は、本来の自由自在を取り戻すのに。。」
何かの為に始めたものは全て、自然では無い。。不自然なものだ。
自然なものにわざわざ不自然を足すな。。
仁義なんて不自然を付け足したものだ。。
不自然なものは、自然である事を、見えなくして行く。
なんの為でも無い。。意味のないもの中に、真の自然である私達が在る。。
仁義が不自然である事は、最近の若者は、強く感じていますね。。
昭和の日本は、この仁義によって成長した。。でも、経済がこれ以上成長しない現代においては、むしろ不自然でない方がいい。。そう感じ始めた人も多いでしょう?
儒教が強い韓国では、お年寄りの言う事に異論する事ができないお国柄のおかげで、若者同士も、堂々と、日本人と仲良くできないし、日本をいつまでも悪く言う、大人達に異論できない。それは不自由です。
私達は、いつしか、何かの為にならぬものは、意味のない、無駄なものと、勘違いしてしまった。
そうではない。。なんの役に立つかもわからん、、意味のない心、行為こそ、空。。道に導かれて生きる自然な美しさ。。自然な幸福なのだ。。
難しいですよね?
お盆という事で、こういう話を増やしています。。
肉体を持たない、あの世での生活、修行をしている縁ある祖霊。。
又は、あの世から、そっと指導してくれているだろう守護の神霊達。。
そういう人達に、肉体次元的な思考で、盆はあーしてあげなきゃ。。こうしてあげなきゃ。。
御供物しなきゃ。。
これは、望まれてる事ではないと思いますね。。
肉体のない世界は、私達肉体に囚われて生きてる次元とは違います。。
だから、お盆に先祖さんを思う時、老子さんがいう様に、不自然な仁義で、祈る心よりも、
大道に沿った心で、お墓に向かう。。
その心の方が届くでしょう。。と思うのです。。
大道に沿った心とは、大道に沿って統一する心です。。
私達は、あの世のご先祖さん達と、大道に沿った統一の祈りをする事だと思います。
そのヒントが、この前に書いたブログ。。墓参りの心をご覧ください。