心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

死んだら皆仏。墓参りの心

お盆になると、墓参りに行くわけですが、皆さんは、お墓を前にして、どうゆう心持ちで、祈るでしょうか?

僕は、清水の次郎長親分の言葉。。死んだら皆仏。。仏に官軍も賊軍もあるか。

この言葉が好きなんです。。

 

 

引用。。。

清水次郎長

~死んだら皆 仏。仏に官軍も賊軍もあるか。~

戊辰戦争、官軍により惨殺された咸臨丸の幕府軍兵士の遺体が清水湊に浮いていながら、官軍を恐れて誰も収容しなかったのを見かねた清水次郎長が子分を引き連れて収容し、埋葬まで行った。

後日、詮議された次郎長が発した言葉。

次郎長を詮議した静岡県権判事の職にあった山岡鉄舟は、心洗われる思いが身体中を駆け巡り、以来、次郎長と生涯の友情を育みました。

また、次郎長も山岡の出会いから人生を180度変える影響をうけ、喧嘩と血にまみれた生活を改めて、
かつて東海一の親分と恐れられた次郎長。
英語塾の開設、富士裾野の開墾、相良油田への投資など、晩年はあらゆる社会奉仕により、地域住民に慕われました。

 

引用終わり。。

 

この言葉は、肉体人間の持つ、立場、都合を超越した、囚われのない言葉です。。

実に美しい、、。

次郎長親分は、ヤクザだった訳ですが、あれだけ子分が、次郎長親分に惚れ込んでいくわけですから。。人格は相当高い人だった。と推測されます。

 

私は、墓参りの心も、これと同じで良いと思います。。

私達は、「死ねばみな仏。。」

肉体を失ってみれば、一つの命です。。

 

肉体に囚われるからこそ、立場、都合が生まれ、利益を奪い合う。。

でも、そんなものは死んでみればわかるぞ。。 

俺たちはいつも分かち合っている一つの命。。仏である。

と、次郎長親分は、理屈ではなく、直感的に知っていたと思います。。

だから、死んで、海岸に浮いている敵軍のお墓を🪦掘り、埋葬したのです。

 

今日も、実は、親友の墓参りに行ったのですが、その親友の墓だけではなく、そこにある全てのお墓。。そして、自分も含めて。。「死ねば皆仏。。」

私達は、仏としての自覚を持って、肉体を持つ事で起こる自己保存欲。。

じぶんさえ、自分の身内さえ助かれば良い。。

そういう肉体次元の心を改めて、自分を含めた全ての仏。

仏である事を自覚して、天命をまっとうしていきましょう。。

 

そういう祈りです。。

祈りとは元々、統一するという意味です。

 

何かをしてあげる。とか、お願いをしてあげる事では無い。。

 

肉体次元に住む私達も、深い所では、死んだ人と同じ霊界、神界に住んでいるのです。

ただ肉体を持つと、肉体の五感が強すぎて、それがわからなくなる。。直感が鈍るんです。。

そこで、死ねば皆仏。。これが分からなくなる。

 

そもそも千の風でも言われるように、お墓に先祖がいるわけでもない。。

お墓に行くと意識が、先祖と近づくという事ではあるでしょう。。きっかけです。

 

お墓では、自分の先祖だけではなくて、自分を含めた全ての、死ねば皆仏。。

それを再認識して、手を取り合う。。と言いましょうか。。

そういう統一、祈りの心が大事だと思います。

 

本当はオリンピックも、そういう場でありたい。。金メダル争奪戦をやってる場合じゃ無い。

 

今日も、友人の墓の前で、周りにある他のお墓、自分をも含めて、私達仏の天命が、全うされますように。。と、手を合わせて3分ぐらいすると。。身体の中に、温かいお湯が流れるが如く、とても気持ちがいい感じがしました。。

この感じは、長野の善光寺に行った時と同じ感じです。。

 

きっと、僕の祈りの心。。言霊が、霊界と共鳴した。。そして、その光が、オーケストラの様に、響きあい。。増幅した感じがしました。。

見る人が見れば、今日のあのお墓群は、光輝いたはずです。

 

あー。。今日の僕の、祈りの心の周波数は正しかった。。

これからも、この心で良い。。

墓参りは先祖さんの為だけでは無い。。

自分の為でもある。。

 

もっと言えば、自分も先祖であり、先祖も自分であるということ。。

これが、自分の為に生きるという事。

皆さんがもし、そういう気持ちでお祈りしたい。。と思うなら。。

「私達は仏と一心同体です。。仏として私達の天命が全うされますように。。ありがとうございます。」でいいと思います。

f:id:kawamuraseitai:20210812125347p:plain