因果応報という言葉は聞いたことがありますね?
しかし、この意味は誤解されて解釈されていて、その誤解が、囚われを生み、かえって人の苦しみを増やしているのです。。
因果応報とは、一般的に言えば、いい事をすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある。。
自業自得という言葉もあります。。
人が六道輪廻する、その生まれ変わり。。死んだら何処へ行くかは、この因果応報の法則のよって決まる。。と言われていますね!
では、いい事とはなんでしょう。。悪い事とはなんでしょう。。
それは誰にもわからんのです。例えばタリバンの人は、いい事をしてると思っているのでしょう?
また、マルチ商法の人も、いい事だと思ってやってる人がいる。。
宗教の勧誘もそうです。。あれがいい事ですか?悪い事ですか?
誰にもわからんでしょ?
でも、あるがままかどうかなら、自分の胸に聞いてみればわかる。
それは、人間の頭脳が、後から勝手な基準を設けて、いい事と悪いことを分けただけで、因果応報の法則を創った、神様側から見れば、そうではないのです。
神様側から見た因果応報とは、いい事と悪い事に、相対的に分けたものではなくて、仏の心に帰依して生きたかどうか!
仏の心のままに生きたかどうかです。
一如に生きたかどうかでもある。。そういう因果応報です。褒美と罰の法則ではなく、気づきの法則です。
必ず気づける様に、自分に何度も繰り返し、近づいてくるのです。
この前に書いた、老子の言葉を参考ください。。
老子は、大道という言葉で、仏の心のままに生きる事、無為自然と、。。「仁義。」。あーしよう、こうしようと生きる事、何かの為に生きる事を、別に分けて説いていますね。。
例えば、太陽が頭上、垂直な場所にあれば、太陽の真下☀️に立つ人には、影ができませんよね!
その状態が、大道のままに生きてる状態です。。
難しいですけど、なんとなくでいいです。。知っていればいつか解ります。
それが、太陽に垂直な位置から、少しでもズレると、つまり囚われた分だけ、ズレる。。理論的にも影ができるでしょう?
その影は、自分が仏の心を外れて、全体を忘れて、個人的欲望で生きたズレ。。そのズレた分が、影となって現れる。。
私達は、その影を、自分の影。。言い換えれば囚われを見て、それを恐れ、迷い、苦しんでいるのです。。
影の原理が解らない子供は、最初、何処までもついてくる自分の影に怯えて泣きます。。
それと同じ。。苦しみ、迷いとは、自分の心のズレ。。その影です。
もっと解りやすい例えでいきます。。
得意の自転車🚴♀️理論です。
自転車に乗れる様になるまでは、何度も転びます。
何故、転ぶのか?というと、重力線と、自分の重心と、自転車の重心が、一致しない時に、転ぶ訳です。
転ぶと痛いし、また転ぶんじゃないか?と、不安になります。。
でも、なぜ転んだのか、学習していくうちに、地球の🌏重心と自転車の重心、乗る人の重心が一致してくる。。
すると転ばなくなりますよね。。
なんなら手放しで、スマホ見ながらでも転ばなくなる。。
これが、地球の重心に、自転車と自分の重心を帰依するという事です。
この転ばなくなった状態は、太陽の真下に立ち、影がなくなった状態。。
それが悟りであり、解脱です。
因果応報とは、ご褒美と罰則の法則ではないのです。
あなたは、今生で、これだけ重心から外れた心で生きましたね。。
だから、死んだ後は、あなたが一番、重心を外してしまう心の働きを、改善できる場所に行ってもらいます。
そこで、自分の何処が、仏のこころ、、重心に帰依していないのか?理解してくださいね。。
それが六道輪廻です。
よく、生きてる時にいい事をした人が天国で、悪い事をした人が地獄。。と、思われていますが、先程申したように、何がいいことで、何が悪いことか?
そんな基準はあの世にはないのです。
仏の心のままに生きれたか、どうか。そこだけです。。
仏の心のままに生きる事が、できる様になった人が、六道輪廻の上層部に送られ、解脱の修行に入る。。
仏の心のままに生きる事が、なんだが解らない人は、地獄に落ちるのではなくて、地獄が一番、何が間違ってるか。。気づきやすい場所だから送られるのです。
何処に行っても救いの場所であるのです。
ご褒美と罰ではない。。
その人に修行しやすい場所に送られるのです。
全ての人が必ず解脱するのです。
なんなら地獄に落ちない為に、天国に行ける為に、善行を積んで、徳を得ようとする心も、仏の心を離れた欲望なんです。これは、あるがままを外しています。。
宗教団体は辞めた方がいい。。と、僕が言う理由です。。
死んでみたら地獄だった。なんでだ。。という人が多いでしょうね!
難しいですね。。
何故なら、全ての人が、最初から仏として誕生しているからです。
私達は、天国に行く為とか、地獄に落ちない為。。という為のある生き方をやめる事。。
これこそ、仏の心のままなのです。
老子のいう大道です。
仏教では空即是色。。
無為自然。。
言ってる事は全て同じ。。道元さんの只管打坐もそうです。
私達は、生かされるまま、ありのままに生きる練習。。
これが自転車の練習と同じです。
ありのままという自転車に乗る練習です。
自分の影に怯えるのではなく、自分の影は、自分が外した心の影である。。
ならば、その影を認めて受け入れる。。
その事で、自分の持つ囚われが、執着が外れ、脱力し、代わりにありのままの自分の心が現れる。。入れ替わるわけです。
その心に従って生きていくという繰り返しです。
自転車の練習によく似ています。
自転車もそうです。。
元々乗れる資質を持って生まれてるから、誰で必ず乗れるようになる。
では何故乗れないか?というと、あるがままに乗れないかからです。
肉体に付随した五感、または意識、欲望、自己保存欲が、あるがままを曇らすからです。
でも、何回も転んでいくうちに、曇りが晴れて、あるがままにになっていくのです。
これは、私たちが、何回も六道輪廻する事と同じです。。
何回も輪廻転生する事は、何度も転びながら自転車に乗れる様になる事と同じです。