仏教は正しく美しい教え。。僕も大好きですが、どうも葬式仏教。。葬式坊主は、本来の仏教を歪めて、自分達僧侶会に、都合の良い金儲けの仕組みを創り、それを押し付けられ、脅され、お経を読まないと。。戒名を付けないと。。墓参りを怠ると。。法事を怠ると。。
故人が浮かばれないとか、バチが当たるみたいな、遠回しに脅してくるのです。
そして脅された遺族が、僧侶の言いなりになる。。
今日も49日法要と、納骨式を終えたが、49日までは良いが、今後、僕の中では、こんな事する必要があるのだろうか?
49日であの世に行ったはずなのに。。
という疑問が消えない。。
僕の大好き親鸞聖人は、どう考えていただろうか?
引用。
お墓はきちんと管理しないとバチが当たる?
某(親鸞)、閉眼(へいがん)せば賀茂河にいれて魚に与うべし
『改邪鈔(がいじゃしょう)』
(意訳)
私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ
と常に仰っておられました。
かなりびっくりする内容だと思います。
中には、親鸞様は自然にかえるのがいいと言われたのだと思う人もあるかもしれませんが、このお言葉は、墓や遺骨の取り扱いによっていい所にいけるかどうかが変わるものではないし、バチが当たるということもないのだと仰ったお言葉なのです。
仏教は生きている人が、生きたままに本当の幸せになる道を示されたものです。
死んでからの話をしているのではないのです。
墓が悪いから、死んだ人が浮かばれないとか、バチが当たるなどということは仏教では教えられていません。
墓をどうするかを決めるには、亡くなった方が遺された私たちに何を望んでおられるか。
私が子供や孫に何を望むのかということを考えてみることから始めたらいいかもしれません。
そもそも、故人がお墓にいるだろうか?
故人は手を合わせれば、いつでもここに居るのです。
いつでも繋がり続けているのです。
逆に、法事の時しか思い出さないことの方が、おかしい話。
墓参りについて考える上でのヒント 墓参りの意義は何?
墓について考える上でのヒントになると思いますので、最後に墓参りの意味を紹介したいと思います。
浄土真宗では、墓参りは本当の幸せになる大切なきっかけになると言われます。
自分自身の改心、開眼のきっかけなのです。
故人の為ではありません。
無常を観(かん)ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり
という言葉が仏教で言われます。
無常とは常が無いということで、今の生活もずっとこのまま続いていくということはない。
当たり前の生活が崩れ、やがて私の命も終わっていくということです。
その現実をありままに見ていく(観ずる)ことが、菩提心(本当の幸せになりたいという心)の第一歩だと言われています。
引用終わり。。。
親鸞さんは、亡くなった故人が、残った遺族に一番望むことは、故人が浮かばれないから。。とか、バチが当たるから。。という間違えた恐怖観念を超えて、生きてる人間の本当の、阿弥陀如来から与えられている幸福。。菩提心に目覚めて欲しいということです。。
親父が亡くなった親父への1番の親孝行は、日々菩提心に気づき、開眼していくことです。。
その光こそ、極楽の親父に届き、親父も極楽浄土において更に奥深く菩提心に開眼して行くのです。
私達は、葬式坊主が創り上げた、葬式仏教の洗脳に囚われず、自分が菩提心に開眼していく毎日こそ、墓参りである。。
と、生きてるいくのが正しい。。そう思うのです。