人は、立派な人間になろうと、努力するわけですが、自分の思い描く立派な人間とは、程遠い、どうしようもない人間である事に、嘆き、自分を責めて、苦しむのです。。
それが悪いというのでは無いのです。。
自分の思い描く立派な人間像が、自分に合ってない場合もあります。。
あの人の様になりたい。。と、別の人を目標にしても、あなたらしさは違うのです。。
その憧れのあの人にない持ち味を、持っている可能性もあるのです。
立派な人、憧れの人を目標にするのではなく、ああいう風に、自分も自分の持ち味を発揮して、そういう自分を見て、元気になってくてる人がいればいいなー。。
俺の持ち味とは、どんなだろう。。楽しみ。。
今、自分は、ダメ人間かもしれんが、禅の道元さんが言う様に、瓦を磨いて鏡にする。。だったかなあ? 間違えてたらすいません。
瓦は磨いても瓦です。。本来は。。
しかし、人の場合、ダメ人間も磨いていけば、鏡になるのです。瓦そのままに鏡となる。
立派な人になろうとするのは、ある意味、自分以上の自分になろうとする欲望です。。
それは、瓦を磨く行為でなく、瓦に、色を塗ったり、飾りを付ける事になるのです。
瓦以外の物質に変わろうとする欲望です。
そうではなく、今の自分は、まだ磨かれていない瓦です。。そういう意味でダメ人間であるが、ダメを磨いていけばそのまま仏なのだ。。という事です。瓦そのままにです。
だから、今の自分のダメさぶりを、「俺らしいダメさぶりだ。。。」と、笑える位置が基本です。。まずそこに立ってみてください。。とても楽です。
その位置から、毎日、自分に降りかかる予期せぬ出来事。。必要な経験をしながら、それを受け入れて、反省していく。。それが、ダメなものを磨いて鏡にするという事です。。
ダメ人間を嘆くのではなく、ダメ人間ぶりを、笑い飛ばし、日々、ダメ人間なりに磨いていくと、瓦が輝いてくるのです。
今、プロセスとして、ダメをまとっているのです。
ダメを経験しながら、ダメではない自分を知るのに必要なダメなのです。。
磨く物がなければ、磨かれた姿も解らないのです。
だから磨くものを与えられているのです。。それを磨く事イコール修行であり、悟りだと道元さんは言うのです!
それは、仮の自分であり、本当の自分ではない。。
ダメ人間など一人もいないのです。。
死ねば皆仏。。という言葉が好きですが、磨いてみれば皆仏です。
ですから、ダメな自分も、丸ごと好きになってあげてください。。
ダメ人間丸ごと磨いてやればいいのです。。
そうすれば、ダメがなくなり、仏瓦となるのです。