心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

ゼロ(空)思考の勧め

このブログを始めた理由の1番は、自分が鬱だった頃、真理を知りたくて、いろんな本を読んだが、どこにも納得できる答えがない。。

そんな中。仏教の禅思想。。特に道元さんの思想に感銘を受け、それがきっかけで、オセロゲームの黒が、一気に白に反転する様に、問題が解けてきた。。

 

それで見えてきたのが、ポジティブ思考でも、ネガティヴ思考でもない。。絶対思考、ゼロ思考があり、そこに至る事ができれば、人間の苦しみは消えるという事を理解しました。。

つまり、自分の誤った思考で、自分を苦しめているのですね!

 

それを、心の問題で苦しんでいる人に、読んでもらい、ゼロ思考を、知るきっかけにして欲しいという思いからでした。

 

実際、縁があって、ブログを読んでくれた人が、市外から来店してくれる事が出てきました。

 

ゼロ思考とは何か。。簡単に言えば宗教です。。宗教というと怪しい団体。。という  イメージが強いと思いますが、僕のいう宗教とは、元の教え。。という意味です。

つまり、誰かに教えてもらわなくても、生まれる前から、与えられている、組み込まれている

全人類、全宇宙共通の教え、呼吸と言ってもいい。。

 

それは、誰の中にもあるのです。。それが僕のいうゼロ思考です。。

ゼロというと、プラス思考と、マイナス思考の真ん中。。と考えてしまいがちですが違います。。

プラス、マイナス。。ポジティブ、ネガティヴ。。善と悪。。幸福と不幸。。

という相対的捉え方を超越した捉え方です。。

 

ゼロというよりは空ですね。。

色即是空空即是色です。。

いろんな宗教団体がありますが、宗教とは、本来全て同じはずなんです。。

宇宙の法則が宗教ですから。。

例えば、交通ルールに例えると、いろんな交通ルールあれば、交通事故が増えます。衝突が増えますね!

今。世の中は、宗教に至らない、自分の立場に都合の良いるルールが溢れて、衝突しているのです。。宗教団体もそうです。。

宇宙の法則とは、人類共通の交通ルールです。。それが皆さんの中に組み込まれていて、それに従って生きれば、衝突は起きない。、調和な世界が在るのです。。

生かされてるがまま。。あるがままです。。

 

キリスト教と、仏教は全然違いますね!

でも、深い感覚で観れば、仏教の無、キリスト教の全託、老子さんの無為にして為せ。。

全て同じなのです。生かされてるまま生きるのが無心です。。

 

仏陀も、イエスも、老子も、同じものを観ているんです。。

宗教は一つです。。

ただ、その解き方が違っていたのです。。時代背景や、国民性もあり、いきなり難しい、奥深い話をしても解らないだろう。。と、その位置まで降りて説いたのだと思います。。

西洋医学と、東洋医学の違いを見てもわかるでしょう?

 

西洋の人は、物事を、部分で、分析的、相対的に捉えるのに対して、東洋の人は、全体で観ます。。

これが、仏教が、1番全体的、絶対的に説かれている由縁です。

 

全体的であればあるほど、宗教と言えるのです。。

私達は、宇宙と一つの存在だからです。

 

神と人間は向かいあい、ひれ伏す関係ではないのです。。

同じ方向を向いて、笑っている。。家族写真の様な関係です。

後ろから、笑顔で、背中を押してくれる存在です。

 

そこに衝突はなく、調和している。。自然と関係性の間合いが合っている。。

呼吸の間合いが合っている。。一つの呼吸体。。合い。愛なのです。。

 

愛とは、自分を犠牲にして、親切を施すことではないのです。。

相対世界を超越した世界が愛の世界であり、その世界では、他人はいないのです。。

自分さえ良ければ良いという思考もなければ、自分を犠牲にして人の為に。。という  思考もない。全て自分の事なのです。。自分が自分を愛して、自分が自分を大切にする世界。。

そこに殺人が起きる理由がないのです。

 

マザーテレサは、人の為に自分を犠牲にしたのではありません。。 

自分を活かし、人を活かした。それはマザーテレサにとっての幸福でもあったのです。。

エスキリストの十字架もそうです。。

 

心が苦しい人。。努力や頑張りによって、そこを抜け出すのではないんです。。

闘うのでもありません。。むしろ一度受け入れてみる。。自分がこうなる必要性を持っていたのです。こうなる事を受け入れる事によってしか、気づけない事があるんです。

逆に言えば、戦う事を止める、一度受け入れてみる。。いい意味で明めてみると、見えてくるものがあります。

こういう状況に中で、ゼロ思考に誘導されているのです。。

だから、素直に、自分で自分を苦しめている、相対思考を手放し、元々ある、自分の中にある、宝物を掘り返していく地道な作業です。

 

幸福は、最初からあるのです。。奪いにいくものではありません。取り合うものでもない。

特別なものでもないのです。

最初からあるのに、土砂で覆い隠されているだけ。。それが業です。原罪です。

自転車は転けないと覚えないのと同様。。

人間が自分の本体に乗れるには、業や原罪という、間違う事が必要なのです。。転ぶ事が必要なのです。。転ばないように生きるのではないのです。

転んだら素直に、転んだ理由を認めて、放せば良いのです。

転びきれば、もう同じ理由で転ぶ事はないのです。。

それだけ悟った。。という事です。

 

地道に土砂を退けていく作業です。。それは、自分に不都合な状態だからこそ、自分を苦しめている誤った思考に気付けるのです。。苦しさ、迷い、痛みという形で。

コロナの無症状の大変さ。。症状が出るから気付けるのです。。

 

どうですか? 心が苦しい人。。今まさに救われの道のりに、乗っている事に気づけたと思います。。症状はプロセスです。。