心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

仏教解釈 10 敵に塩を送る

中学生の頃、歴史の授業で、上杉謙信が、敵であるはずの武田信玄が、塩に🧂困っている事を知り、わざわざ送った。。。と言う話。。

「敵に塩を送る。。」これに感動したのです。。

 

中学生当時の僕の中では、敵が塩に困っているなら、有利ではないか? 戦争に勝てるじゃないか?。。という思考しかなかったのです。

 

どう言う気持ちで、上杉謙信は武田信玄に塩を送ったのか? 本人に聞いてみなけりゃ解りませんが、上杉謙信は、四天王の毘沙門天を信仰していたと言う所から、、きっと仏教的慈悲心を起こしたのだろうと思うのです。。

 

似たような話で、僕が大好きな話が、清水の次郎長親分が、敵陣の死体が海に浮かんでいるのを見て、子分達に、「死ねば皆仏だ。。敵も味方もない。。死体を埋葬して差し上げなさい」

と、敵陣の死体を、子分に埋葬させた話が大好きです。

 

ラクビーで、試合が終わると、「ノーサイド」と言い、もう敵も味方もないから、お互いの健闘を讃えあいなさい。。と言う考え方。。

スポーツにはこれが必要だと思います。。

 

いつもの氷山の絵を見てください。。

私達は、海の下、見えない無心の世界、魂の世界では、海🌊と言う気で繋がり、一つの命、一つの呼吸なのです。一即多 一つは多であり、多は一つなのです。

自分は隣人で、隣人は自分です。個々の違いはあるが、区別がない世界。。

他人事など無いのです。

全ては自分の身体の一部です。。

それが霊界なのです。

 

一つの氷山が動けば、海が動き、地球上の氷山が影響を受ける。。全体の命なのです。

しかし、海の上。。目に見える相対世界は、魂が肉体を持ち、肉体派次元に生きる為に用意された有限な世界です。。

 

霊界が、無限の世界であるのに対して、目に見える物質世界は、裏表がある二元化相対世界であり、有限な世界です。。

霊界に住む魂の心そのままに、肉体次元を生きれば、生き写しで肉体次元も無限な世界として、無限を活かして生きていける調和世界になるのですが、多くの場合。。

私達は、無限の世界の住民である事、全体を忘れ、海から上に出ている、物質世界、海で繋がっていない、気で繋がっていない世界。。の住民だと勘違いしてしまう。。

 

自分が居て、他人が居る世界。。自分が居て、敵と味方と区別される世界に生きてしまうのです。

有限な世界しかない。。と言う肉体に付随した意識、ココロは、全体の心を忘れ一人歩きする。。

それが業(ゴウ)となるのです。

有限な世界であれば、その有限を奪い合う事でしか豊かになれない!でしょう?

だから、シェアの奪い合いが起きる。。領土の奪い合いが起きる。。戦争が起きるのです。

 

無限♾️の世界ではこの争いは起きないですよね!

戦争を終わらすには、私達は無限の世界に住む魂なのですよ。。と言う事を思い出す。。事が大事なんです。。

だから、努力ではなく脱力が大事なんです。

脱力?

皆さんは禅や、瞑想が大事だと思っていますよね?

あれは脱力です。。

脱力とは、執着を手放す事です。。執着とは、魂には無い。。肉体意識にしか無いのです。

だから脱力すると、執着が離れ、執着が離れた分、素に戻るのです、素とは無心です。

何かの為に。。これが執着なんです。

無心とは、無為自然、無為にして為せ。。なんの為でもなく、今、この調和に感謝する事なんです。感謝するとはお任せする事なんです。

 

仏教でいう信心とは、信じようとする努力ではなく、お任せして感謝の中で、今を一所懸命生きる感謝行の心なのです。

 

健康の為に、集中力アップの為に、禅や瞑想を🧘‍♀️してる人。。大間違いです。。

何かの為。。と言う執着を手放し、素に戻る。自分を取り戻すメソッドなのです。

無限に戻るメソッドです。

 

努力とは、有限な世界で有限を独り占めしようとする抵抗です。。

脱力とは、無限の世界の住民である事を思い出す事です。。

 

私達は、有限な物を少しでも奪い取ろうと、邪(ヨコシマ)な心を起こすのです。。それは横取りのココロであり、横取りをする事に努力しているのです。

無限は♾️縦取りです。。

私達は、奪い合う必要のない恵を、最初から平等に与えられているのです。

そこに気づき、そこを広げて行けば良いのです。。

無限は♾️どこまでも広がるから無限なのです。

ロウソク🕯️の炎🔥を永遠に広げていけるようにね。。

無限の恵みに気づけば、どの恵は無限に広がる。。有限な物の奪い合いは要らないと、解るのです。

 

一即多な世界。。それが霊界です。魂としての自分です。

 

学生が、優勝を目標にする。。

優勝と言う有限な物を手にしようと努力するのです。

 

それが当たり前だと、殆どの人が思っています。。

しかし、

①敵に塩を送る

②死ねば皆仏

③ノーサイド、試合が終われば敵味方の区別は無い。。

 

この霊界の繋がり感こそ、生きてるメインなんです。

肉体を持った以上、肉体を維持する為の自己保存欲があります。

 

自己保存欲は、動物の心です。

弱肉強食。。ボスになる魂、メスを奪い合う争いが起きます。

しかし人間は、動物と違って二階建てです。

自己保存欲の奥には、全体の命、、魂があるのです。。その心は仏性を備えた、仏の分身としての心です。

 

だから、上杉謙信は、きっと、「領土争いの戦争が起きるのは、肉体を持つ人間の宿命である。仕方のない事。。しかし、戦争を好むココロは、霊界に住む魂の全体の心を忘れた、肉体に付随した意識の勘違いによって起きている事象に過ぎない。。この様な戦争を繰り返す事で、その間違えたココロ同士をぶつけて破壊して消そうとしているのです。。だから必要悪なのです。。しかし、本筋は、一つの命であり、死ねば皆仏である。。だから人間の業を打ち消し合う戦争。。奥深い所では、手を握っているのです。。お互いの魂が、お互いの業を打ち消う協力をしているのです。。表面的には敵対していますが、奥深い心では友人ですよ。。。」

 

だから、あなたが塩🧂で困っているなら、塩を送ります..兄弟として当然でしょう。。

それであなたの陣が、元気を吹き返して、戦力が向上しても良いじゃないですか?

そこには本質はありません。。

 

敵である相手に塩を贈れる心と、その贈り物を、疑う事なく受け入れた心が本質なのです。。

結婚にも、良縁、悪縁とありでしょう?

悪縁も、この武田信玄と上杉謙信の戦争の様なものです。。

 

喧嘩して憎しみ合う心は、肉体意識に過ぎない。。

奥深い所では、握手🤝をして、業を打ち消し合って、掃除しているのです。

 

憎しみ合う友人、知人も、憎しみ合っているのは表面意識でしかない。。

奥深い所では、友人です。。

 

ですから、憎み妬むのは仕方ありません。。

しかし、そんな人が、本当に困っている時は、助けてあげられる自分でいてほしいのです。

僕もそうしています。。