先日、瀬戸内寂聴さんが、愛とは許す事である。。
と言っていた。。
これを聞いて、腑に落ちる人は、どれぐらいいるだろうか?
僕は違う。と思うんです。。
愛とは許す事である。。?
この言葉の裏には、許してやる。。という上から目線があるし、許してやろうとする。。無理、偽善も入る。。
また、許せない側に、何か囚われがあるから、憎しみが産まれているのである。そこが、大事。。です。
むしろ、人を許す前に、自分の、人を許せない心の原因を見つめて、捨身する事が先です。その心は、自分を責めて、自分を許せない事でもあるからです。
兄弟喧嘩に、お母さんが、この言葉を言うなら正解だと思うが、仏教を拡める立場の人が、この言葉を言うのは、正直浅い。。
それよりも、愛とはなんであるか?
と聞かれたら、僕は、敵に塩を送る事。。
この言葉の方が僕はしっくりくる。。
この言葉は、武将の上杉謙信が、敵である武田信玄が、海の無い甲斐国で、塩がない事に困っていると知って、塩を送った。。とされる話です。。
これは、清水の次郎長親分の、死ねば皆仏。。と、同じニュアンスがあります。。
愛とは、合うであり、会うなんです。。
元々一つの存在である、仏の分け御霊である私達が、肉体を持つ事で、その事を忘れて、争い、奪い合い、憎しみ合う。。
これは、業として、宿命として仕方のない事。。
しかし、私達は、肉体に囚われず、静かに呼吸をして、自分を見つめて見れば、私達は、兄弟であり、姉妹であった。。
それに気づいた時、それは、いがみ合う二人が、深いとことで、手を握り直した瞬間。
再会であり、再合とも言えるでしょう。。
そうか、私達は、元々、仏から生まれた兄弟であったんだね。。
許すも許さないもないじゃないか。。
最初から、許していたし、最初から、信じていた。。それを忘れていただけなんだな。。
その、肉体に囚われる相対世界を忘れ、魂では、最初から手を握り合い、握り会っていたんだなあ。。
その境地が、合う、会う。。愛なんです。
愛とは、その境地に至った時に湧き上がる感情です。元の気。。元気です。元気は愛です。
離れ離れだった親子が、再会した時、愛の感情が湧き出てくる。。
抱きしめずにはいられない。。可愛くてしょうがない。。
それが愛なんです。。
瀬戸内寂聴さんが言う様な、愛とは許す事。。
こう言う言い方では、敵に塩を送る🧂とか、死ねば皆仏。。
という境地に気づく事ができない。。
愛とは許す事ではなくて、最初から許し愛、信じ愛っている関係であった。。と、思い出す
、思い出した境地の事です。
そこには、許そうとか、許せないという世界はないんです。。
何故なら、すべて自分ですから。。
私達は、肉体を持つ事で、動物の縄張り争いと同様の、自己保存欲が、肉体に付随されています。。
しかし、その奥にある、魂の世界では、手を握り愛、抱きしめ合う、兄弟、姉妹、親子なのです。。
自分の子供は可愛いですよね。。
その心が全ての人に向けられている世界があり、魂は、そこに住んでいるのです。。
さあ、ここまで聞いて、死ねば皆仏。。敵に塩を送る。。この言葉は、愛の言葉だと思いませんか?