誰にでも嫌いな人、苦手な人はいます。。
しかし、嫌いで苦手だが、そこに囚われていない人は、自分の会社に嫌いな人が居る。。という事実しか存在しません。
その場合、その人と、2人っきりにでもならない限り、その人の存在に囚われ、気になることはありません。。目の前に来た時だけ、拒否反応ストレスが起きます。
逆に、嫌いで苦手だが、そこに囚われている人は、自分の会社に嫌いな人がいる。。という事実が、家に帰ってからも、熟睡してる時間以外は気になり、四六時中、その人を、頭に中で意識して、その場にいるわけでもないのに、その場にいるが如く、心配。不安になり、暗い顔をしています。。
この違いはなんでしょうか?
それは、嫌いだと言うことに、囚われてるか囚われていないかの違いです。。
何故、囚われるか? そこが問題です。。
それは、そこに囚われてしまう理由。。執着、こだわりを、自分が持ってっいるからです。
この写真の様に、私達は、心の安定を求めるために、何かにすがりついています。。
イエスマンも、会社に依存しているのですし、宗教に依存するのもそうです。
何かに依存しているのです。それは執着です。
その執着を手放せない。。
手放すと、下に落ちて大怪我してしまうと考えるからです。。
でも実は、その手を放せばいいのです。
手を放せば、実は、下はすぐ地面なのです。
上しか見てないから、手を放したら大怪我するから、絶対放してはならない。。
と、思い込んでいるのです。。
それが、私達が、すがりついているもの。。依存しているものです。。
これが囚われとなります。。
実は、私達の、嫌い、苦手は、この執着、囚われを放さない、放せない事が原因で起こるのです。。
手を放すだけ。。放せば下はすぐ地面です。。
それを地に足がついた状態と言います
。。
あれ? 地面だったわ! 何で今まで手を放さなかったのだろう。。
地に足がつくと、心に余裕ができて、なんだ、このロープを伝って、崖上に戻らなくても、あそこにいい道があるじゃないか!
それに気づくのです。。
よく執着が強いほど、強いという事を言いますが、それは勝敗を決める勝負事の場合であって、私たちの人生は、勝負事ではありません。。
例えば、会社で一番美人な女性、マドンナがいたとします。。
その女性は、会社内ではマドンナで、男性社員の注目の的です。。
取り合う様に、飲みに誘われる。。プレゼントを貰う。
女性は、会社で1番の美人という、ポジションに、知らない間に、幸福感を感じています。。
満足して、その地位に執着してしまいます。
そんな時、新入社員で、もっと美人の女性が入って来た。。
男性陣は、手のひらを返した様に離れて行き、その女性に、アプローチをかける。。
その時、男性人にとっては、楽しみしかない。。ワクワクしかない。
他の女性にとっても、特別何も変わりません。。
でも、美人の人にとってはどうでしょう!
その新入女性社員に嫉妬し、自分の幸福を奪い取った憎い女性という事になり、その子の悪口を言う事になり、嫌いな子。。という扱いになるでしょう。。
しかし、この女性がもし、私が、1番の美人である、。といういい時代を過ごさせてもらった。。
でも、あの子が入ってきて、これで終わりだ、。
あの子の方が、若くて可愛いんだから。。仕方ない。
と、それを認め、受け入れた瞬間から、その新入社員は、嫉妬の対象ではなくなります。。
むしろ、応援してあげようと、妹分の様に可愛がれるかもしれない。。
そして、ロープを手放し、地に足が着いた事で、余裕ができ、モテモテ時代の舞い上がっていた自分を反省して、本来の自分の持ち味を活かした仕事の仕方ができるようになるかもしれない。。
この様に、嫌いな人、苦手な人。。しかもそこに囚われてしまうには、自分の無用な執着がある。。ということです。。
それを手放す事が先です。
そうすれば、嫌いな人は。ただの嫌いな人。。
として、付き合う事はできるでしょう!
嫌いな人を、好きになる必然はありません。。
何故嫌いなのか? 自分の囚われに気づく事ができればいいのです。