悟りとは、何だろう。。
仏教では、図の様に、悟りには、52段階あって、52段階で、本当の成仏、仏となる。。
如来となる訳です。
死ねば皆仏。。という言葉がありますが、正確にいうと、あの世での修行で、52段階に到達するまでは、私達は、仏ではなく、仏教を修行する者。。菩薩なのです。
勿論、お釈迦さんのように、生きたまま成仏した人もいるのです。
空海さんも、即身成仏と、生きたまま成仏したのかも知れません。
一般的には、地球ではお釈迦さんだけだと言われます。
51位に達した人は、たくさんいるはずです。
皆さんご存知弥勒菩薩が、今、その位にいると言います。
私達も、死ななくても、仏教に興味を持ち始めた時点で菩薩なのです。
私達も、お釈迦さんと何ら変わらない、宇宙の一部として、宇宙の細胞分裂の一部として生かされているのですから。。
私達も、何度も生まれ変わり、いつかはお釈迦さんと同じ境地、妙覚、仏に成る。。
そういう存在です。
では、お釈迦さんと我々、人間は何が違うのでしょう。。
それは、お釈迦さんは、霊が止まる(ヒト)であるのに対して、我々肉体に囚われ、肉体に付随した煩悩に囚われて、霊が止まる事を邪魔している存在。。
それは、霊が止まる(ヒト)に成る途中、間である存在、人間だという事です。人間が霊が止まる(ヒト)と成った時、お釈迦さんと同じ場所の住民となるのです。成仏です。
では、人間と(ヒト)。。とは何が違うんでしょう。。
まず、仏教では、人は最初から救われている。。という言い方をします。。
その反面、道を求めて救いを求める事も説かれています。。
さあ、人間は最初から救われているのか? 救われていないのか? それとも救いを神仏に求めたり、難行苦行による自分の努力により、達成するもの、成し遂げる物でしょうか?
違います。
この辺が難しいから誤解され易いのが仏教です。
ここでカメラ📷をイメージしてみてください。。
今のカメラは、スマホ📱もそうですが、ピントを自動で合わせてしまいますが、僕の子供の頃は、カメラは自分で2枚のレンズを調節してピントを合わせたのです。
ここでこの2枚のレンズを、二つの心としましょう。。
私達は、心の奥底に、お釈迦さんと同じ。。宇宙が細胞分裂した、宇宙と一つの命、呼吸を与えられています。。一即多。の命、全体です。
それが私達の、本体、魂の在り方です。。本体は、宇宙の細胞分裂した一つの細胞である以上。。
最初から救われている存在です。。当然ですよね? それが元にある心、波動、元レンズです。
しかし、私達人間は、物質界という波動の荒い、時間が遅い時限に住む為、魂に、肉体次元を生きる為に、肉体という服を着せられていて、しかもその服には、肉体に付随した意識、煩悩、欲望を付けられているのです。それがもう一つのこころ(コロコロ一喜一憂するココロ)
レンズです、2枚のレンズがあります。
それを、元波動、魂レンズが、魂の道具としてコロコロ変わるココロを、従わせ、操る事ができれば、魂の調和した世界がそのまま、地球という物質界に現れるはずですよね?
魂の世界は救われている一つの命、全体、一即多の呼吸ですから。。魂のレンズのままに肉体、煩悩を使えれば、そこに邪(ヨコシマ)な横取り合戦は起きないんです。
しかし、人間は、肉体次元。。目に見える世界。。科学、過去未来という時間軸、距離軸に囚われ、魂である元波動、一即多の命レンズを忘れてしまったのです。
しかし、これもある種、計画通りであって、この迷子状態から、もう一度私の元へ戻っていらっしゃい。。
そうすれば、更に(ヒト)として産まれた事に喜びを感じる幸福を獲得するでしょう。。
という宇宙心の慈悲です。
そうですねえ。。例えば、可愛い子には旅をさせろ。。みたいな事です。
産まれながらの金持ちで裕福な毎日を送った子より、親の金を当てにせず、自分で世界旅行して来い。。その方が、生きてる、生かされてる、真の喜びを知るだろう。。と。
つまり、世の中が、乱れる事は、ある種の予定通りです。
この乱れた世の中は、何故起きるのかを知りなさいということ。。
自転車は、転んで覚えなさい。。という事です。
転んで初めて痛みを知り、乗れる喜びを知るのです。
お釈迦さんは、肉体次元を経験して悟った、唯一の如来だと言われています。。
他の如来は、肉体次元を経験していません。。
だから、肉体次元を経験して悟れたお釈迦さんは、凄いし、如来の中でも、悟りの深さが深いんです。
人間の煩悩(ココロ)が起こす執着という苦しさを知って、苦しさを超えた(ヒト)ですから。。
それが、難行苦行ではなくて、煩悩即菩提という乗り越え方です。
それを私達人間も、させて頂いている。。お釈迦さんと、同じ道を体験させて頂いている。。
しかも、その先輩であるお釈迦さんが、道標として、仏教という多くの経典を残してくれています。この幸福があるんです。
経典は、弟子が書いたものですけどね。。
ですから、最初から救われている元波動魂レンズと、肉体に付随したレンズのピントがあっていれば、あるがままに物事が見える様になる。。
その世界はクリアで、澄んだ世界です。
身体の調子がいい時は、世の中が綺麗に見えるでしょう?
私達の苦しみとは、魂レンズ(他力)に帰依せず、肉体のレンズで眺め(自力)のココロで、勝手に横取りし、多ければ多い程幸福、無ければ無いだけ不幸。。という誤った認識、歪んだレンズで物事を捉える事(自力)から起きているんです。在るものを見ず、無いものを見る癖。求める癖。。無いと思うから求める訳でしょ。。
それが執着心を起こす。。その執着心が、一度力ずくで得たものが、今度は無くなる。。取られる恐怖、不安を生むのです。
ですから、救われていない執着心というレンズ事救われるには、最初から救われている魂レンズにピントを合わせて行く事でしょう?
それは抵抗せず受け入れる、。認める事です。
それが祈り🙏。。合掌なのです。
二つに見えるものを、元の一つに戻すメソッドです。
魂の世界は調和した世界で、足るを知る世界。。足りないからと、人のものまで横取りしようとはしていないんです。
在るものを在るものとしてありがたく活かして行くと、それ自体が、増して行くからです。
世界経済が成長し続ける様にね。。全体で成長して行く世界です。横取りで自分だけ増やせば、減る人もいて、結局プラマイゼロです。成長しない。
だから、魂のレンズに帰依して、ピントを合わせて行くと、競争や奪い合いに頼らない成長が産まれる。
言い換えれば、他力を受け入れ、受け取り、自力を捨てる。。
自力と他力を入れ替えるのです。
(自力)とは、何かの為に生きようとする、自分の努力で、何かを成し遂げようとする心です。
(他力)とは、一即多である、全体の命、宇宙の法則に生かされるまま調和した一つの呼吸です。その働きを頂き直す。。他力回向。回し向けられるまま生きる調和の幸福です。
それは、何かの為に、時間を費やし、何かを成し遂げようとするココロではなくて、老子さんの無為にして為せ、無為自然。。親鸞さんの自然法爾。。為に生きない心。。
悟るとは、まさに、為を捨てて無為を頂き直す事。。それは、自力を捨てて、他力を頂き直す事なんです。。
これの繰り返しで、上がっていきます。
まさに、煩悩即菩提の繰り返しなのです。
難しい話ですね。。
今回僕も、チャレンジしていますが、何となくで良いです。
頭で理解できないのが仏教です。。
だから身体ごと座禅🧘したり、念仏したりするのです。。行です。
悟りとはいろんな段階があります。。
しかし、僕がいつもいう様に。。
この世は善と悪、幸福と不幸に分かれて見えるが、実はそうではないという事に気づく。。
雨が☔️降らなきゃ虹は🌈立たない。。
煩悩即菩提の法則の中で生きている。生かされている事が見えてきた時。。
魂のレンズと肉体レンズのピントが合ってきた瞬間です。
悟りの階段を一段上がったのです。
その瞬間から、自分に起こる有頂天な災いも、辛い災いも、共に区別なく災いである。。雨である。。
有頂天な歓喜も、人を慢心させ、自分を見失いさせる災いです。
相対的に分けられたものは全て諸行無常。。本当は実体のないものです。。
ないものを求めるから不安になる。。これが人間の苦しみなのです。
しかし、雨が降る事を受け入れる事ができれば、その後、区別された相対物は、一体化して、虹🌈となる、。
その虹こそ、最初から与えられていた、救われていた。。という、二度と無くならない、真の幸福。。菩提心なのです。
災いと幸福があるんじゃないんです。。
私達が災いだと思う事のなかに、出汁があるんです。
雨が降らなきゃ虹は🌈立たない。。
この仕組みにまず気づきましょうという事。。
それが、救われるいる魂レンズに帰依した生き方です。
救われた生き方なんです。
いつも言う、抵抗せず、まず受け入れてみよう。。
これは、雨に抵抗すれば虹は見え🌈ないよ!
という事です。
雨はどうしようもないでしょう?
どうしようもない事は、受け入れれば虹🌈が立つよ!
そういう法則です。
どうしようもないことに抵抗するから。苦しみが変わらないのです。
虹🌈こそ、最初から与えられている真の幸福なのです。
その虹を🌈獲得するには、災いという産みの苦しみを通過する必要がある。。
整体の好転反応と同じです。
これは昇華の苦しみなんです。
例えは悪いが、麻薬が抜ける時の禁断症状の様なものです。
また、細かく説明していきますね!