仏教に十牛図。。というのがあります。
興味のある方は、書店にてお買い求めください。
牛と、子供の関係性から、絵を通して、人間の悟りの段階を現したものです。。
この絵を見ると、結局、悟る。。という事が、特別な事でも、凄い事でもない
、とても静かなものだと解ります。
昔の修行僧は、悟る事を、特別な事、凄い事だと思って、その境地に至りたい。。と、求め、難行苦行をしていたのだと思います。。
でも、本当の悟りとは、そんな張り合いのあるものではなく、凄くもない。。
むしろ静かで、目立たないもの。。求めて得られるようなものではないのです。
求めて得られるものは、思い通りの結果と、その達成感という興奮と、周りの評価です。
悟りとは、むしろ、それを全て放棄した心境と言えるでしょう。
得ようとしても得られないが、手放す事によって得られる世界があるのです。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。。です。
禅の姿、祈りの姿は、実は、放棄の姿。求める事を放棄した姿です。
宇宙の法則に、私の全てを委ねます。。という姿です。受け入れの姿です。
十牛図を見ると、本当に悟った人は、普通の人に見える。。凄くなんかない。。
という事が解ります。
私が整体修業中。。ある有名な整体師にお会いしたくて、でも、その方は、どこで
整体をしているのか? 場所も電話番号も、公開されていないのです。。
それでも、やっと場所を特定し、直接そこに行き、ピンポンを鳴らしました。。
すると、事務員さんらしきおじさんが、出てきて対応してくれました。
私は、大先生に、整体を教えて頂きたい旨をお伝えし、その事務員さんは、伝えておくと言ってくれて、その整体院の電話番号を教えてくれました。。
電車で帰ろうと駅で切符を購入した時、あれー?今の大先生じゃない?
大先生の著書の裏表紙の顔写真に似てる事に気づきました。。
そうです。。事務員さんだと思っていたのは先生でした。。
あまりに普通だったので解りませんでした。。
もっと凄いオーラを持った人だと、勝手に思い込んでいて気付けませんでした。
その時、十牛図を思い出し、成る程。。と、思いました。構えのない人は普通に見えるんだ。。
それからは、あまり凄いということに囚われなくなりました。
凄いに囚われすぎると、判断を間違います。
凄い人より、素敵な人。。こちらのが、十牛図でいうところの、悟りに近い人です。
凄い人が、悟った人だと思えば、、予言をする、空中浮遊出来る人を尊師と呼んだ宗教団体がありましたね?
あ〜言えば上祐。。で、お馴染みの方も、何故、尊師に惹かれたのか? の質問に、テレビで、「予言ができたからだ。。」と言っているのを見ました。。
凄いという表現は、どちらかというと、大脳の興奮です。
あの人は素敵な人だなあ。。この表現は魂の言葉です。
あまり凄さに囚われず、素敵さを見ていきましょう。。
凄さよりもっと深い所に本質がある。。
凄さに囚われすぎると、それが見えなくなるのです。
人は、凄い人だと思われたくて頑張るものですが、だからこそ、凄い人には打算がある場合があるという事です。凄さは意図的に創れるが、素敵さは意図的には創れません。
打算なく、生きてる人は、目立ちませんが、そこが素敵です。。
いつも禅の心で、祈りの心で生きていけば、誰でも素敵です。
元々素敵なのが、一時的に、凄さを求めすぎて道を外してるだけです。
壁にぶつかったら、道を外してる合図です。。
謙虚に、素直に元の位置の戻る。。そこで気づきがあります。