心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

極端から極端へ、中庸とは

酔っ払いが、右にぶつかったり、左にぶつかったりしながら、なんとか真ん中を千鳥足で歩いてる姿。。

あれが実は、私たちの人生、運命です。。

中庸という言葉を聞いた事があるでしょうか?

老子講義。。という本にたくさん出てくる言葉です。。

中庸とは、真ん中という意味ではなくて、生かされるがまま生きる。。という事です。

自分の力で生きようする事(自力)を通して、右にぶつかり、自分で生きようとして左にぶつかる。それを繰り返していくうちに、身体が、どうも自分で生きようと力むのは間違いなんじゃないか?。。と気づき始める。。

何回も繰り返していくうちに、右にずれたり、左にずれたりする幅が小さくなり、その分、生かされてるがまま生きる(他力)。。頂いた命のまま生きる。。という事が身体で解ってきます。。人間はその様に設計されており、生かされてるがままの流れに乗る事こそ、最初から与えられていた幸福なのだと理解していきます。

だから平等なのだと。。

仏教の十牛図という教えにおいても、子供が、牛という幸福を無理やり、手綱を引っ張り、自分の思い通りの方向に動かそうとしますが、思い通りにならず、ついには牛にまたがってみる。。すると。。なんだ、ここが幸福じゃないか。。と気づく過程が描かれています。牛と子供は一体であり、牛の行きたい方向が子供の行きたい方向なのです。。一致しています。。

昔のカメラは、自分でピントを合わせていました。。ピントがあってない時は、ぼやけて見えます。あれが人間の苦しさです。

牛にまたがった、生かされるがままの自分と、手綱をひっぱろうという肉体意識との

自分のズレが、ピントが合わず、苦しみとして知らせて、しかもそのズレを解消しようとして症状が出ます。

ピントが合えば、クリーンに見えます。。

整体施術後、視界がクリーンになり、拡がった感じがしますが、あれはピントが一致したのです。

そういう事を気付かされるシステムの中で生かされて、学ばされているのです。

そして生かされているがまま生きられるようになる事が悟りです。

中庸とは、悟りであり、色即是空空即是色の世界であると言えるでしょう。

老子さんの言葉を使えば、無為にして為す。。

生かされるがまま生きるとは、何かの為に生きる事をやめる事です。

リレーの様に、バトンをそのまま受け取り走り出せばいいのです。

生かされてるがまま生きる事ができれば、何かの為に生きようとする人間の意識はいらないのです。それが思念、想念です。

自分で生きようとすれば、何かの為。。という大義名分、目標、目的が必要となります。。

しかし、それが実は間違いだと気づかせる為に、右にぶつけ、左にぶつけしながら、気づきを促されている毎日なんです。

だから、運命に逆らわず、毎日を受け入れていけば、必ず中庸に至るのです。

それには、迷っていて動けない時には、極端から極端をやってみる。。という事です。

そうすると、運命が見せようとしている中庸が見えやすくなります。

躁鬱というのも、躁にしたり、鬱にしたりを繰り返しながら、中庸に導いているのです。

運命とは、間違いも同時に理解しながら、中庸を知る道標です。

自分の都合の良い運命を望む事は、十牛図でいうところの、牛を手綱で無理やり、自分の行きたい方向に引っ張ろうとする行為なのです。

そうでなく、それを明らめて、牛に乗ってみるのです。

今まで見た事にない世界がみえて、何だ、これでいいんだ。となるでしょう。。

初めて読んだ人には到底受け入れられない内容ですね!

私もそうでしたから仕方ありません。

しかし、皆さんの中に最初から流れている法則ですので、いずれ嫌でも解る時がきます。解った時には、受け入れてますから、大丈夫。

快く受け入れてありがとう。。と思えているはずです。https://youtu.be/f-KysE6jUaQ