私のブログでは、しつこいほど、運命を受け入れる事が大事。。
運命に抵抗しない。。闘わない事。。としつこく言い続けています。
ばぜならそれが仏教の奥義だから。。
運命とは、自分の過去世での、心の間違った働き。。それを修正させるのに適した出来事、出会いという縁を、散りばめられた、悟り誘導システムであり、表面の意識には都合の悪い出来事でも、もっと深い大自然と一つの呼吸をしている仏の自分の方は、こういう運命を通じて、自分の中の業を消していく、掃除をしていく。という契約にサインしているのであって、最初から全てを受け入れているのです。。
肉眼で見える世界、意識できる世界は氷山の一角。。殆どが見えない世界、、意識できない空の世界によって運営され、生かされている存在。。ただ在る。。存在です。。
座禅とは、そのただ在る存在になり切る行であります。。
東大寺の仏像が半眼で、どこもみていない、。あれはどこにも意識を置かない。。
つまり、見える世界。。意識できる世界に囚われず、全体を感じる、。座禅の姿です。
それは、先ほど申しました、奥深い仏の自分は、運命を全て受け入れて生きているのです。。
全てを受け入れて生きていくということは、仏の心なんです。
仏の心。。受け入れの心は、肉眼の囚われを超えて、第三の眼を開く。。
仏像の眉間にボッチがあるでしょう?
第三の眼が開けば、第三の道が開くんです。。
八方塞がりとは、肉眼で見える世界に囚われている状態。。それは、運命に抵抗し、努力し、頑張り、戦う事から、自分の都合のいい幸福を得ようとする行為の間違いを、教えられているんです。。
そんな時こそ、受け入れてみなさいというサインです。。すれば、囚われが離れ、脱力し、腹に重心が落ちる。。腹で物が見れるようになる。。
第三の眼が開き、第三の道が開く。。
海が割れるように、今まで思いもつかなかった道が開く。。そこを進んでいけばいいのです。。
だから、イメージできる目標に囚われるのではなく、今日を受け入れていく。。第三の道が開く。。また八方塞がりになる。。受け入れる、道が開く、、進む。。これを繰り返す。。
それが今を生きるという事です。。
私のブログが面白いと、感じて読んでくれている方。。私は20年来、受け入れる生き方をしてきたのです、。
その分、第三の眼が開眼している。。
その眼に見える物を書いているんです。肉眼を超えた眼です。
だから、初めて聞く話なのに、なぜか説得力がある。。
それは、皆さんの奥底に在る、仏の自分は、知っているから。。懐かしい感じがするのです。。
幸福とは特別な物じゃない。。
特別な幸福を求めれば、高揚感はあるでしょう。。
しかし、副作用もある。
それが、特別な物を幸福だと見る囚われが作る不幸なのです。
受け入れてみれば、幸福でも不幸でもない。。ありがとう。。が見えてくるのです。