心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

ぶれない自分は最初から在る。。

ぶれない自分なろうとか、強い自分になろうと、ハウツウの本を読んだりするのでしょうが、

努力で身につけた、ぶれない強さなんて、脆いもんなんです。

自信もそうですね。。努力で身につけた自信なんて脆いもんです。。

 

本当のぶれない強さとは、すべてを受け入れられる心であり、全てにありがとうといえる事です。そして生かされてる仕組みに、お任せできる心です。

これが、無為にして為せであり、空即是色であり、親鸞さんの、自然法爾です。。

 

僕は学生時代空手をやっていて、精神的にも喧嘩も、強いんだ。

俺は強いんだ。。努力によって、強さを身につけたんだ。。と、思っていました。。

しかし、試合当日、下痢になってしまい。。力も出ないし、根性も出ない。。

なんじゃこりゃあ。。

 

肉体に付随した意識は、努力によって身につきますが、逆に、肉体の不調によって、全て失う程度の強さだと、この経験を通じて理解できました。。

 

これを、試合当日に、下痢になるなんて、運がないですねえ!と受け止めるのか、下痢で、力が抜けてしまう経験をさせて頂けてありがとう。。こんな素晴らしい経験をありがとう。。と思えるかです。。

 

本当の強さとは、自分の思い通りでない、不都合な出来事を、自分の成長に、気づきに、必要不可欠な出来事として、受け入れられる事です。。感謝できる心です。

その強さは、肉体の好不調に影響されない。魂の強さです。。

 

人間にはぶれない魂の心、不動心と、肉体に付随した意識。。ココロ。。と、二つあるのです。。

皆さんは、ぶれない太陽の様な、魂の心がある事に気づかず、肉体に付随した意識。。ココロを、自分の心だと勘違いして、生きているのです。。

その間違いが、苦しみや病気を作るのです。

 

肉体に付随した意識は、本体である太陽魂の前を通りすぎる。。雨雲に過ぎないのです。。

それを自分の本体だという間違いが、強さは、努力で身につけないとできない。。

という間違いを生むのです。。

 

そうではないのです。

道元禅師が弟子から質問されました。

「師は、人は、生まれながらに仏であると言います。。であるならば、何故修行する必要があるのですか? 最初から仏なら、仏になる為の修行をする必要がないじゃないですか?」

現代人なら、皆、こう思うでしょう!

 

道元禅師は答えた。

「生まれながらに仏だからこそ、修行さえすれば、必ず仏に至り、悟りに至れる」と。。

これが、見えない世界の真理です。。

私達は、最初から、ぶれない心、不動心を持っているのです。。

長年の生まれ変わりの、経験の中で、肉体意識に囚われ、本体という全体を忘れ、自我という個人のみの欲望で生きようとした間違いが、業となって、原罪となって、雲となり、太陽を覆い隠しているだけであります。。

一度汚れる必要があるのです。

汚れたものを、もう一度拭き取る作業が、修行であり、本当の綺麗さが出てくるのです。

自転車は転んだ回数だけ、上手に乗れる理屈です。。

子供の無邪気さは、邪気が少ないだけで、不動心の光は、まだ出ていないのです。。

一度、汚れたものを拭き取る作業で、輝きが出てくる。。

だから、神仏は、一度、汚れる過程を許しているのです。

問題は, いつから拭き取る事を始めるのかです。。

不都合な出来事に、ありがとう。。と、言えた瞬間から始まるのです。

 

 

見えないだけで、在るのです。。

だから、修行さえ続けて、雲を一つ一つ捨てていけば、太陽があった事に気づく。。仏であった事に気づく。。というのです。。

難しいですね! なんとなく解りますか?

毎日、自分に降りかかる不都合な出来事は、空手の下痢。。と同じで、本当に大切な事は何かを、気づかせてくれる出来事であり、むしろ、僕にとっては、空手に試合で優勝する事よりも、人生を変えた出来事なのです。。

不都合な出来事は不幸だと考える心は、病気は不幸だという心と同じです。。

自分に不都合な出来事こそ、本当に大事な事を、教えてくれるのです。

自分に都合の良い事だけ呼び込もうとする、引き寄せの法則なんて、くだらない。