心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

感情する事は疲れる?

深キョンのブログだろうか?

こんな一文が紹介されていた。。

「怒っても疲れるだけだから、私は怒らない」

 

感情をあらわにする人は、確かに迷惑ではあるが、じゃあ、心に思ってる事を、出さずに腹にしまう事がいい事ではない。。それをするから身体が詰まって動かなくなる。。

 

大学生の頃、某宗教団体に勧誘されて所属した時、「私は嫌いな人などいません。」。みたいな顔してる信者が、気持ち悪くてしょうがなかったのです。

確かに感情する事は疲れるでしょう。。

 

怒るのも疲れるし、泣いても疲れる。。じゃあ喜ぶのは疲れないかと言えば、笑い疲れる。

笑いすぎて、腹が痛くなったり、笑いすぎて涙が出てきた事は無いだろうか。。

 

あれは、笑いすぎる事も、身体に悪いという事です。。

怒る事も、泣くことも、笑う事も、邪気の排泄なのです。。

車がマフラーからガスを放出するから、エンジンが燃焼できるのです。

 

愛情という言葉があるが、愛とは合う。。万人が、一つに重なった部分であり、空ともいう。。

空に裏付けられた情であれば、調和する訳だが、愛、合う、空という身体感覚が麻痺して、肉体に付随した情だけが、一人歩きして、それを心だと勘違いした、欲望する次元の情は、邪気となるので、調和せず、情はぶつかる訳です。。

 

でも、ぶつかるのが嫌だからと、出さずにおこう。。というのは、嫌いな人など私はいません。。何故なら皆、神の子ですから。。と、言ってる宗教信者の嘘臭さと同じになってしまう。。

 

そんな嘘をついてる暇があったら、正直に、あの人が嫌いだという自己意識を認め、何故、嫌いなんだろう。。

あの人の何が嫌いなのか? それは自分自身に問題があるのか?

それを理解して、調和せず、ぶつかってしまう、愛を離れた情に気づき、それを改めて、愛に繋げて愛情にしていく。。

 

それをしているのです。。

愛に従った情は、空即是色と同様です。。

 

愛情は、最初から調和した世界です。。

そこに戻っていく。。

 

得意の自転車で説明すれば、自転車という。愛である自分に乗る練習には、乗れない自分、転んでしまう自分を、何度も体験する必要があるのです。。

 

乗れない人は、乗れる人より、自転車に乗る事がしんどい、疲れる。。

転べば尚更疲れる。。

だから、しんどいから。もう練習はしない。。となれば、もう自転車には乗れないのです。。

 

感情を露わにする事は、自転車の練習であり、転ぶ事と同様です、。

間違っているから疲れるのです。

 

でも、疲れる間違いを体験するから、疲れない、正しい乗り方を覚え、手放しすらできる様になるのです。。どんなスポーツも同じです。最初は無駄な間違った動きが多くて疲れる。。

 

だから、疲れるから、怒らない、泣かない、喜ばない。。それは、一見、感情を出さない強い人間の様に感じるかもしれんが、宗教信者の話と同様、。かっこつけても、本当の愛である自分に乗れる様にならない。。

愛である自分に乗るには、愛を離れた情で生きてる自分を認め、それを手放していく。。

それには転ぶ必要があるのです。。

言い換えれば、感情を出して、疲れる。。という 体験が必要です。。

しんどいからこそ、どんどくない情の出し方を覚えていくのであって、しんどいから出さない様にする。。

 

それは、オナラを我慢してるのと同じ。。

適度に出して、適度にぶつかり合い、ぶつかる事で、業をぶつけ合って、消していくのです。

 

大阪なおみさんの記者会見拒否もそうです。。

 

わがままで自分勝手と言えばそれまで。。ですが、確かに、負けた人の記者会見は必要ない。。そう言われると、成る程、そうだなあ。。と、気づく人たちも沢山いるという事です。。

誰かが感情を露わにする事で、いままで気づけななった事に気付けるチャンスでもあるんです。