現代社会は、ネットでなんでも情報を得る事ができるから、解らない事は、ネットで調べて、昔のテレビ番組、トリビアの泉の様に、知らなかった事、解らなかった事を、知識として知っただけで、大脳の興奮が脱力する快感があり、そこで満足してしまう。。
人間には、そういう癖、落とし穴があるのです。。
池上彰の番組の視聴率が良いのも、知らない事を知る事による大脳の興奮の脱力という快感。。
でも、それは知っただけであって、解ったのではないから、心の成長には繋がらないのです。。
昔から。仏教でも、行(ぎょう)と言って、どんなに、難しい仏教の教典を読破して、物知りであった。。としても、それが行いに出ていないならば、解っていないに等しい。。
むしろ、そんな仏教の教典を読んだ事がなくても、自然な行いが、無為自然である人は、解っている人となります。
こういう言葉があります。
小聖は山で悟り、大聖は町で悟る
この言葉が好きです。
人里離れて、山で難行苦行してる人より、袈裟を着て、坊主の振りをして、説法している人よりも、街で、普通に、普通の毎日を送りながらも、行いが美しい人こそ、大聖だという事です。。
解るという事は、身体で解るということです。。
それは腹で解るということであり、細胞で解る。。全身全霊で解る。。ということ。
解るという事は、解きほぐすという事。。
混ざる、調和するという事。。執着という壁を取り払う事です。
例えば、いがみあう隣国と、お互いが執着という囚われを手放し、死ねば皆仏じゃないか!と、心からハグできた時、それは、解き解された。。解った。。という事です。
それが合う、愛なのです。愛とは、バラバラだったものが、もう一度一つになる事、一つになった時に、沸き起こる歓喜です。
例えば、自転車に乗れるということ。。
最初は、お父さんから、乗り方を知識として教わる。。
それで乗ってみる。。漕いでみる。。知ったのです。
でも、できない、転ぶ、痛い。。これは、頭と身体が分離している。。分かった状態です。
でも、繰り返しているうちに、コツが解る。。
コツは身体が理解したのであって、頭が理解したのではありません。
転ばずに乗れる様になる。。手放しで乗れる様になる。。
これは、地球の重心と、自転車、自分の重心を一つにするコツを、身体が悟った。。
という事です。
バラバラだった。地球の重心と自転車の重心。自分の重心が、解きほぐされて、一体化したという事。。
これが、本当の解った。。という事なのです。。
だから、肌で感じて、肌で解る事しかできない。。身体でしか、全身全霊でしか、解らないのです。
頭では、理屈では解らないのです。
よく、「分かってるんだけど、できないんだよねえ」
というセリフがありますが、それは分かってる。。つまり、まだ分かれていて分離している状態。。解ったではないのです。。
解ったとは、自然とそうしてる時、解ったという事です。
全てが調和した時、それは意識されません。。
身体が調和してる時は、身体を意識しないでしょう?
これを無為自然というのです。
人の為に。。とわざわざ意識しなくても、自分の為に淡々と、生きてる人の行いが、自然と周りの人の幸福に繋がっている。
それが解った人。。
街で悟る大聖なのです。
解るという事。。それは、解きほぐすという事。。
バラバラなものが、もう一度一つになった時、それが理解です。悟りです。
それは身体を使うしかない、。行が必要なのです。。
身体を使って間違う事。。間違うから解る。
だから、とにかく身体を使ってやってみる事です。。
やってみれば、必ず解る事がある、。