僕がいつもお客さんに、将来は山で仙人となり、仙人整体やるからきてね!
なんて、冗談を言っていますが、本音を言うと、仙人にはなりたくないのです。。
そもそも仙人とはなんでしょうか?
かすみ食べて生きてる人?
実は仙人とは、仏教では褒め言葉ではないのです。。
解脱したくて、修行をした人。。その結果、肉体人間を超越して、かすみ食べて生きてる。
消える事もできる。。
しかし、自分のやってきた修行。。それを捨てられない人なんです。。
これは、筋トレやらないと太るからやり続けないといけない。。
という心と同じですね!
囚われが残っているという事なんです。。
囚われが残っているとは、自分が残っているという事なんです、。
囚われるのは自分ですから。。
デカルトの、我思う、故に我あり。。という言葉と同じです。
しかし、仏教における、本当の自由自在とは、無碍自在。。つまり囚われがない状態。。
それは自分が無い状態。。我が無い状態です。。
私達が考える自由とは、職業選択の自由とか、民主主義とか、自分で、選択ができる事。。
もしくは、自分が、我慢しなくて良い環境。。
自分の思い通りである事。。
だと思っていますね?
それは、肉体次元の自由であって、本当の魂の自由とは無碍自在。。
囚われなく、自分がいない。。境地です。。
それが解脱なんです。。
解脱とは、自分という囚われを脱ぎ捨てる事です。。
それには、あーしよう、こーしよう。。あーしなきゃ、こうしなきゃ。。こうであらねばならない。。
などの。自分から出てくる心を手放していく事なんです。
それは我思う。。の我であって、私であって、全体の中での個である、和多志では無いのです。
仙人さんは、修行をしなくてはならない。。という自分が残っているために、惜しいところで解脱できない人の事を言うのです。。
自分とは色です。。自分を解脱すると空です。。それで空即是色です。
色のついた一雫を、海に混ぜても、混ざらない。。
しかし、自分を脱ぎ捨てた透明な一雫は、海に同化してしまう。。
つまり、一雫の水は、海そのものになるんです。。
急に世界が拡がるわけで、それが自由自在、無碍自在です。。
私達は、我思う。。故に我あり。。という我を脱ぎ捨てていく。。裸になるんです。。
銭湯に行くと、みんな裸で、すごく落ち着きませんか?
死ねば皆仏。。という言葉が好きですが、裸になれば皆仏。。そんな感じがして、僕は銭湯の雰囲気が好きです。。