私達は、自由になる事が、幸福になる事だと思っています。。
尾崎豊の、「自由になりたく無いかーい!、どうすりゃ自由になるかーい、自由になりたく無いかーい。。思うように生きているかーい!」
という歌詞。。よく歌っていました。。
尾崎豊にとって、また私達にとっての自由とは、自分の思い通りになる事。。自分の思い通りになる事を邪魔する存在、環境がなくなる事だと考えています。
だから盗んだバイクで🛵走り出すのです。。家出するのです。
そして、邪魔な存在を殺して消してしまうのです。
だから、学校が無ければ。。大人がいなければ。。あいつさえいなければ。。。という歌詞になる。。尾崎豊の歌詞に、当時の若者は、そうだそうだあ〜。と、震えた訳です。僕もその1人。大の尾崎豊ファンです。
しかし、自分の思い通りになる自由は、永遠に続く事はない。。一時的なもの。
自分の中にある本当の自由自在とは、思い通りを邪魔する存在がいなくなる事だとしたら、そんな事は不可能です。でしょう?
嫌な環境から逃げたとしても、その嫌なもの、自分の思い通りになる事を邪魔する存在は、逃げた先の環境にも、そして、またそこから逃げた次の環境にも何故か、自分の影のように追いかけてくる。。
なんだこれは。。
ひょっとして、自分が自由でない。。と、思う理由は、外的環境ではなくて、自分の影に怯えているのではないか?
宮本武蔵が、農家の叔父さんの横を通る時に、飛び上がった。。という話。。
農家の叔父さんが切り付けてくると感じたのです。
しかし、それは、自分の心の影を農家のおじさんに映し出し、自分の心の影に怯えたのです。
自分の心の闇が、自分の影となり、その自分の影に怯えているのではないか?
その自分の心の闇こそ、自由自在を邪魔してるものではないか?
この事は、皆さんご存知、親鸞さんの、たんにしょう。。という著書の中にある言葉。。
無碍の一道。。または無碍自在という言葉。
引用。。
上に掲げた言葉は、『歎異抄』のなかにある親鸞の言葉です。「無碍」とは、さまたげ(碍)がないということですから、「念仏者は、何ものにもさまたげられることのない、ひとすじの大道を歩むものである」という意味になります。大変力強い響きを持つ言葉です。
自分が歩んでいく道において、何ものにも邪魔をされることがないなら、どんなにいいでしょう。
親鸞さんは、きっと、本当の自由自在とは、自分を妨げる環境のせいではなく、自分を妨げている。。と、誤解している心の闇にあるのです。
例えば、あいつは嫌いだ。。という人を、皆が嫌いな訳じゃない。。
あいつが嫌いな理由は、自分の心の闇に、あいつが不都合な存在だからで。。
その心の闇が無い人にとっては、あいつは不都合な存在では無い。。
つまり嫌いではないのです。
つまりあいつのせいでは無いのです。
無碍自在。。本当の自由とは、自分を犯す妨げが無い心の在り方という事。。
どんな外的環境にも侵されない。。晴れて良し、雨でも☂️良し。。あればあるで良いが、無いなら無いも乙な物。。生きるも良し、死ぬも良し。。健康も良し、病気も良し。。
例えば、太陽🌞の手前で、曇りになったり、雪が降って☃️いたり、台風が💨きていても、実は太陽には何にも起きていない、、
その心が、本当のあるがままな心です。
ある、無しで一喜一憂しない心、。あるがままな心。太陽🌞の様な心。。そういう心が在るのです。。という事に気づいた分自由となるのです。
侵されなくなるのです。
ある無しなどどちらでも良いし、どちらも良いよ!
そんな所に、真の幸福、自由自在は無い。。
もっと深い所に、損得、ある無し、勝ち負け、成功不成功を超えた、幸福、絶対的な幸福があるよ!
その心に気づけば、無碍の一道の入る。。
あるが幸福、無いが不幸。。という肉体的相対的幸福感を転じて、幸福しかない絶対的次元に転入する。。
それは、自転車🚵♀️を転びながら乗れる様になる事と同様。。
相対的な幸福感を追い求めて、転ぶんです。。その度に転ばない幸福が見えてくる。。
その為に転ぶのです。。
転んでいいのです。。
転ばないと解らないのです。。転べば解るのです。。
だから、失敗を恐れず、転べばいいんです。
転ばない様に、効率的に生きたって、本当の自由自在、無碍自在は見えてきません。
PS 僕のブログを読んでいる人は、意外にも、仏教系のブログが好きな人が多い事が分かってきたので、どんどん書きますね。