私達は、他人との関わりで生きているが、相手が解らない。。
という事が原因で実に付き合いにくく不自由してしまう。。
そこで、相手の事が解ったら、もっと自分が楽になるだろうと。。
相手を分析し始める。。
動物占いや、血液占い。。野口整体の体癖論も同様。。
一定の基準を設けて、そこに当てはめて行く。。
区分けして行くと言っても良いだろう。。
あの人はB型だから、あーなんだ。。じゃしょうがないか。。
川村先生がライオン🦁だからあーなんだな。。
じゃあ、絶対口論で勝てないから、おだてておけば良いと、書いてあるな。。
おだてておこう。。
あの人は体癖の上下型だからあーなんだ。。
じゃしょうがないな。。
これは、ある種、医者が、患者に病名をつけて区分け整理して、仕事を楽にしようとする行為に似ている。。
病名さえ決めれば、出す薬💊も、治療方針も決まるから楽なのです。
それは親切ではなく、手抜きです。
要は、他人の事が解らない苦悩を、一定の基準を設けて、区分けして整理する行為。。
その程度に過ぎない。。
それは、机の上に散乱しているペーパー類を、区分けして引き出しに入れた事に過ぎないのです。
机の上は綺麗になり、スッキリする。。それだけのこと。
脳の🧠自慰なのです。
野口整体好きの人に多い。。あの人は左右型だから。。上下型だから。。
この会話が僕は大嫌いなんです。。。。囚われが過ぎる。。
昨日来たお客さんも、すぐ体癖に関連付けて話をしてきたので。。この話をしたのです。勘の良いお客さんなので、理解し、反省してくれました。
野口整体の修行時代。。研修生の間では、休憩時間になると、この手の話で持ちきり。。
本当に嫌だった。。
体癖の話ばかりしてる研修生で、一流になってる人はいません。
それでその人を理解できたと考えるのは奢りで。。
トマト🍅にはリコピンが豊富だと言って、トマトが解ったつもりになるのと同じ。
そんな事で、人を理解できたと思うのは、池上彰の番組を見て、ロシアの事が解った。。
と、頭の中が整理され、スッキリするのと似ている。。
実際は、何も解ってはいない。。
ただ知識を得ただけ。。むしろ知った事で、囚われを増やした事にもなる。
ロシアの事情を知って、ロシアに行って、人助け。。そんな人は多分1人もいない。。
むしろ他人事となる。。
ただ頭の中の迷いを、理屈で整理して、納得してスッキリしたいだけであります。。
それで、もう解った。。と、思えば、それ以上の成長はないのです。
医者が病名をつければ、患者が救われた事になるだろうか?
救われているだろうか?
当院には、いろんな病院で病名をつけられ、治らないのだ。。という人が来店。。
僕は医者にこう言われた、。という話は、参考にするが、ほぼ無視する。。
最初から僕の診断で身体を診ていく。。
すると全く違う原因を見つけ、それを調整すると、治る。。
ここで僕がもし、病院が付けた、病名に囚われてしまえば、真実は見えないのです。
そして、病院の付けた病名は間違いだったという事。。
区分けすると楽である。
区分けされればマニュアル化できるから。。
初対面の人の、学歴を知りたいのも区分けです。
社会的地位を知りたいのも区分け。
しかし、真実を知りたいなら、むしろ区分けをしてる事。。を、捨てる事。
初対面で学歴も社会的地位も、聞かない方が、真の付き合いができる。。
野口整体の体癖論も、治療をする上で確かに便利ではある。。
体癖は、病気治しだけを専門に考えれば、便利です。
しかし、僕の様に、病気さえ実は囚われである。。
と、病気を超えた命の尊厳を取り戻して欲しい。。
という人には、体癖すら囚われになるのです。。
いつまでも、そこに囚われては、体癖を超えた生命の真実が見えないのです。。
生命の本質は、体癖を超えたものです。
そこに囚われ、あの人は捻れ型だから。。そんなことばかり言っていた同僚の研修生で、一流になった人はいない。。
独立した人がいない。。当然です。。囚われから解放するのが野口整体です。
囚われてる人に、真の指導などできないんです。
むしろ、僕の様に、体癖は用いるが囚われない。。
体癖に囚われると、感覚が鈍る。。
という姿勢の人が、独立して信頼を得ているんです。
これは、自分を信じているからです。
自分を信じられていない人が、体癖マニュアルに依存するんです。
動物占いは良くできています。。体癖も良くできています。。
しかし、そこに囚われた分、自分の心の目を制限してしまうのです。
心の目にシャッターが降りてしまう。。
サングラス🕶️をしてしまうんです。
その分、本当の自分を、生命の尊厳を知ることができない。。
イコール🟰他人の生命の尊厳も見えないのです。
そこで誤解が生まれる。
誤解が誤解を産み、結局付き合いにくくなる。
他人は自分の写し鏡です。
他人が解らないのは、自分が解らなからです。
何故自分が解らないかと言えば、囚われが、視界を狭めて、あるがままに見る事ができないからです。
ちょうど20年前。。職場の先輩が言うんです。
「川ちゃん。。俺はこれから、人の良いところを見ていこうと思うんだ」
この先輩は上司ですが、僕の事を尊敬してくれてる人だったので。。僕の助言をとても素直に受け入れるんです。
僕は「先輩、、人の良いところを見ようとしても、自分の心の器以上のものは映らないんです。。今の先輩の心のレベル以上のものは、いくら見ようとしても見えないんです。。そんな事より、自分の心を磨く事。。磨かれた分、今まで映らなかった人の良さが映るんです」
「はあ。。そう言うもんかね!なんかすごい納得できる。。
そうか。人の悪い所ばかり見えてしまうのは、俺の心が曇っているからなんだな!」
そう言う事です。
人が解らないなら自分の心を磨け。。
動物占いや、体癖論という基準で、自分を、他人を区分けして、整理し、解った気になってしまえば、それ以上自分の心が磨かれる事は無い。。
本当に知るべきは、体癖を超えた一つの命、、尊厳です。
僕がいつも言う。。目標は持っても、目標に囚われるな。。
それと同じ。。
動物占いや体癖論も、生命の尊厳を知る、きっかけとして勉強する事は大事だが、それを丸ごと捨ててしまえた時こそ、悟りなのです。
最初の師匠に言われた言葉。。「覚えて捨てろ」覚える事が大事なのではない。。
捨てる事ができなければ、真実は残らないと。。
仏教の無碍自在(ムゲジザイ)。。本当の心の自由自在とは、何事にも囚われない心です。
囚われているうちは、本物じゃないんです。
煩悩あるまま、煩悩に囚われない。。これが悟りです。
自分が大嫌いのまま、自分が大嫌いな事に囚われない。。
病気あるまま、病気である事に囚われない。。
これが無碍自在。。本当の自由自在。。悟りなのです。
勝ち組や負け組に囚われない。。その心こそ自由自在です。