修行。。と聞くと、緊張しませんか?
修行とは、我慢する事。。頑張る事。耐える事
だと思っていませんか?
座禅というと、特に、そういう感じしますよね。
現代においても、幸福を達成するには、どれだけ我慢できるか。
我慢しないと、幸福が得られない様な勘違い。
だから鬱の人は絶望的になります。
頑張りたくても、頑張れない。。
頑張らないと、幸福が手に入らないのであれば、鬱の人は絶望的です。
周りの人が、心配してくれるほど、それでも頑張れない自分に、自暴自棄になります。
でもご安心ください。
道元さんは、そうではないのだよ。。と問いかけてくれます。
鬱になった人は、むしろチャンスです。
修行とは、頑張る事ではない。。それに気付けるチャンスを与えたれたのです。
道元さんは言っています。
座禅とは、何行苦行ではなく、ただ座るだけの安楽の行だと。
道元さん以前の、修行といえば、悟りという特別な物があるのだと思い、それを何行苦行する事によって到達できると考えていたのです。
肉体をいじめていじめて。。麻痺させて、肉体に付随した欲望を、剥がせば、悟りが残ると思っていたのです。
青い鳥を追い求めていたのですね。
でも、求めたところには、何もなかったのです。
その考え方の癖が、現代でも残っています。
それが間違いだと気づく過程での鬱です。
求めたところに、青い鳥はいないのです。
最初から、皆さんの中にあるのです。
メガネを頭にかけておきながら、メガネを探している状態。
座禅とは、悟りを求めて座る、悟りの手段ではないと、道元さんは、はっきり言っています。
むしろ求める心、思考を止め、仏と同じ場所に、仏と同じ姿勢をして、仏と同じ呼吸をして、ただ座る。そうすれば、自分が最初から仏であった事が解る。。幸福であった事が解るのです。
これが修行であり、同時に証なのだと。
修行する事によって悟れるのではなく、
修行する事がそのまま悟りなのだ。
深いですね。。
道元さんの事を、知りたい人は、角田泰隆と言う人の本がオススメです。
僕ではとても言語化できません。
例え話で説明します。
悟り。。本当の幸福と言っていいでしょう。
それは、流水プールを無理矢理、逆に泳いだ先にはないのです。
むしろ、それを明らめて、流れに乗った時、流れに身を任せ、無抵抗に受け入れる事
それが禅であり、そしてその流れに乗った事が悟り、幸福なのです。
その流れに乗るとは、本当の自分。頂いた命をあるがままに受け入れ、感謝している自分。。それに乗るのです。
するとそれに乗れない、乗る事を邪魔する、求める心。。雑念が現れては消えていくのです。
日常生活で例えれば、何回も、こけながら自転車に乗れる様になるのと同じです。
こけるとは、求める心、雑念を体験しながら捨てる過程です。
求めると、こけるよ! と教えてくれているのです。
だから、命そのまま受け入れなさい。。と教えてくれるのが人生です。
日常生活こそ、禅だと、僕は思いますね。
流水プールの流れに身を任せる事が、修行と言われて、拍子抜けしますね!
でも、だからこそ、能力に関係なく、誰でもできる安楽の行だと言うのです。
親鸞さんの念仏。。他力回向。。も、似た様な内容を持ちます。
しかしそれが難しいわけですが。