本当に解るとは、解けるという感じに近い。溶けるでもい良いですね。
菩提樹の下で、お釈迦さんが、悟りを開いた瞬間、今、悟ったのではなくて、最初から悟っていた事が解った。。と言っています。
同時に難行苦行では、人間は悟る事はできない事も、解ったとされています。
難行苦行によって悟ったのではなく、最初から悟っていたのです。
難行苦行でによって悟ったのであれば、分かったなのです。得たと言っても良いです。
最初から悟った存在だった。。は解ったなのです。手放したら、ここにあった。。
最初から悟った存在に、難行苦行は必要ないのです。難行苦行とは、自分以上の何者かになろうと、努力する事です。頑張りです。
でも、実は反対で、それを止めたら、最初から悟っている自分がいた。
しがみついてるロープを手放したら、地面だった。みたいな感じ。
それまで、いろんな事が分かっていただろうお釈迦さんでも、多分その瞬間、今まで分かったと思っていた事が、全て分かったつもりの思い込みであった事が、解った。。
その瞬間、すべてのしがらみが解けて、崩れる様に全てが無くなった。
そして、その瞬間全てが現れた。。それが解った。。
解るとは、なんだ、自分と他人、自分と環境を分けて考えていたけれども、全て一つじゃあないか。。一つの呼吸体じゃあないか。。時間すらも一つ。。
何一つ自分を離れたものはない。。相対するものがない。。
分けて見る癖、分けて考える癖、分けて分析、解釈する癖。人と人の間に、仕切りを入れる癖。。だから人間。。人と人の間に仕切りがない事に気づけば、間がない事が解れば、同じ呼吸体の、霊人 ヒト となります。
相手がいると思うから言葉が必要になりますが、全て一つの呼吸体だと、解れば、言葉はいらないのです。
言葉の要らない関係ってありますよね! 本当に気が合うもの同士は、言葉は入りません。お母さんと赤ちゃんもそうです。頭に障害を持った子は、言葉を介さないコミュニケーション能力が高い事が言われています。
言葉というものが、人と人の間に仕切りを作っているとも言えるし、人と人の間に、仕切りがあるという、誤った思考が、言葉を産んだとも言えるのです。
だから、言の枝葉で、言葉です。
動物なんかでも言葉もないのに、魚の群れや、鳥の群れは、測った様に、向きを変えます。人間にも、もともとそういう能力がある事を、空手家の宇城憲治さんの、気のセミナーに、出た時に知りました。
その時、解ったのです。全身全霊で解る。。人間も働きすぎる思考を停止する事ができれば、魚の群れの様に、一体で動く調和した呼吸体だと、解るのです。
手を繋いで円を作った受講生達が、メリーゴーランドの様に、勝手に綺麗な円を崩す事なく、周り続けた。。意識して合わせようとしても絶対無理なのです。
元々調和している世界で繋がる事でしか、起こらない出来事。。
興味のある方、宇城憲治さんの、道塾 参加してみてください。
全国で、やってますよ!詳しくはコチラから。