心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

せめて食べたれや!辰吉の言葉

最近は、コロナのことばかりで、テレビが面白くないので、YouTubeを、閲覧しているのです。。

その中で、元プロボクサーで、世界チャンピオンの辰吉丈一郎さんの動画を見ていました。。

すると、子供の食の好き嫌いについて問われて、

「好き嫌いは許してない。。勝手にちぎられ、勝手に刻まれ、勝手に調理された動物や植物に対して、嫌いやから。と、食べずに捨ててしまうなんて、あまりにもかわいそうやろ。。せめて食べたれやー!」

と、これは、僕もそういう感覚なので、へーと思いましたね。。

辰吉さんは、食べ物は元々、自由に生きていた動物、植物であり、その命を、頂いている、。という感覚があるのです。。

日本人が、「いただきます!」とか、「頂きました!」

というのは、元々日本古来の神道の万物に神が宿る。。古事記八百万の神。。日本書紀の八十神などの思想が関係しているのでしょう。。

食べ物とは、栄養学ではなく、健康の為の手段でもない。。生命という気を頂いて、人間の命に昇華させる行為なのです。。

万物を、自由自在にできる人間は、だからこそ、万物に対しての責任があるのです。。

会社の社長が、従業員の雇用を、なんとか守り抜こうとするのと同様。。親が、子供に責任をもって育てる様に、人間は、万物の親と言えるのです。。

これは、万物に対するエゴではなく、これが、人間と万物が、共存し、共に次元を上げていく方法なのです。。

仏教では、殺生を禁止していて、逃げない生き物。。山菜などを食べる精進料理ですが、それも僕に言わせれば、囚われであり、動物や魚など逃げる動物を捕まえて食す。。

その行為ではなく、心の在り方です。。

動物の生命、、気を、頂く。。昇華させる。。だから、いただきますなのです。。

いただいてやる。。ではないのです。。

手を合わせて、いただきます。。

昔の、感覚がまだ鋭敏だった頃の日本人は、きっと神様に感謝しながら動物を食し、人間の身体に昇華させて、動物の生命を活かす。。という気持ちであったと思うのです。。

食べられた動物も、人間の身体、細胞の一部として生きていける喜びがあるのです。

 

ですから、食べるということは、人間にとっても、動物にとっても、win-winの関係なのです。。また、美食的な考えで、食べ物を評論する様な態度こそ、人間のエゴであり、食べ物を犠牲にする行為です。。

食べ物も喜んでいませんよ。。喜んでいない食べ物の命が、美味しいわけないですね。

ミシュランなんて、僕は大嫌いですね。

 

食べるという事は、人間と食べ物のSEXとも言えるのです。。

肉体の快楽だけを求めたSEXもあれば、夫婦の間に生命を宿したい。。という  神聖なSEXもあります。。

気持ちが全然違うでしょ!

食べるという事を、快楽にしてしまっているのですよ。。

いただきます。。これを、生命をいただきます。。ありがとうございます。。

という気持ちで頂くと、随分、変わると思いますよ。。

きっと食べ物が無かった時代の方が、食べに対する感謝があったでしょう。。

飽食の時代では、食べ物に対する感謝は感じにくいですね。。

人間は平和になりすぎると、当たり前の事のありがたさが見えなくなるのです。。

バブル時代を思い出せば解りますね。。

 

だから地球の恒常性システムが、時々、地球に風邪を引かせて、リセットし、感謝を思い出させるのです。

その風邪が、天災です。。

疫病も、地球の風邪といえるでしょう。。風邪を引くにはウイルスが、必要なんです。。

世界が同時に風邪を引かせるには、世界同時のウイルス感染が必要。。

宇宙規模で見れば、そういう必然が起きているのであって、偶然の不幸ではない。。という事です。

 今、私達は、世界同時で風邪をひいているのです。。

風邪をひいた時は、なぜ風邪をひいたのか、どんな無理をしてきたのか?反省しますよね?

人類は今、それをする時なんです。。