どちらも言葉であって、枝葉なのです。。
我々の思う善。または悪。。という 概念は、我々が目に見える世界を、概念を分けて考え出した、幻の概念であって、本質ではないのです。。
私達は、仏教においては、仏の分け御霊なのです。。
キリスト教の様に、神と人間を、向き合わせた関係ではありません。。
空海の曼陀羅の様に、中心の大日如来の周りを、たくさんの仏が囲む。。その更に外側の円の中に、私達もいるのですよ!
私達人間は、宇宙神の分け御霊。。そこに善も悪も、強い心も、弱い心もないのです。。
宇宙神が、強い、とか弱い心を持っているか?なんて議論になりませんよね。。
私達人間は、肉体を纏い、業をまとっていて、外側から見ると、いい人と、悪いひとがいる様に見える。。
強い心の人と、弱い心の人がいる様に見える。。
ただそれは、外側から見た、大脳の意識、肉眼に見える世界だけで、判断しているだけで、
仏側から、身体全体で感じてみれば、皆同じです。。
死ねば皆仏。。という言葉が好きです。。
そこに善も悪もない。。あるのは、あなたらしさだけです。。
あなたらしさの中に、善や悪という概念は無用です。。
あなたらしさを、自然に出せてれば、それは、宇宙神の分け御霊である、自分自身を現しているのです。。
例えば、川村先生は、善人の概念に、全く当てはまっていませんよ。。
しかし、悪人の概念にも当てはまっていません。。
だけど、当院に通って、川村整体のファン。。川村先生のファンになってくれた人が、通ったり、紹介してくれたりするのでしょう?
それは、僕が善人だからではないですね?
僕が、自然だからですよ。。きっと。。
自然である事は。善悪、強弱を超えて輝くのです。。
皆さんも、いい人ほど、善に囚われる。。キリスト教の人がそうですよね!
いい人すぎて、善に囚われすぎると嘘臭くなる。。偽善になるんです。。
偽善の心は、宇宙神の分け御霊の光ではないから、善人の概念に、当てはまっているはずなのに、輝いていない。。むしろくすんでいる。。
善に囚われすぎるが故に、自然な自分を見失うのです。。
善でも悪でもどっちでもいい。。強くても弱くてもどっちでもいい。。
そういう相対的概念を、超越した時に、自然な自分がいるのです。。
善人になろうとしない事。。尊敬されようとしない事。。
自然でない自分を断捨離していけば、自然な自分しか残らない。。
自然なじぶんは、善人より輝いているし、善悪を超えて、強弱を超えて、自然でいられる心は、不動心となり、強さを超えた安定。。安心立命の心が、ただ在るのです。。
ただ、今日、お客さんから聞かれた、人間は性善説ですが?善悪説ですか?
の質問の答えは、性仏説です。。
人の1番の強さとは、受け入れる心です。。
全てを受けいれるこころ。。とは、すべてに感謝できる心です。。
それは、全てをお任せしますという心です。。
仏教の空も、老子の無為にして為せも、キリスト教の全託も、そういう事です。
その心こそ、究極の自然な心です。。