時を忘れて遊ぶ。。子供の頃は、遊ぶ事が楽しくて、あっという間に夕方暗くなり、親が迎えに来る。。
そんな時、心に不安が起きることはないはずです。
楽しさしかない。。
大人になってからも、初めての好きな子とのデートは❤️、時間が早くすぎるが、嫌いなアルバイトをしてる時の時間の長さは皆さん体験があるでしょう。。
バイクで衝突して🛵飛んだ時も、時間が止まり、スローモーションになります。
僕も経験しました。
空に飛びながら。。あー😮💨俺は死ぬのかなあ。。と、ずいぶんいろんな事が考えられる。
これもある種意識が止まって、無心状態なんです。時間が止まる。
私達の時計が刻む時間は🕰、皆共通ですが、その時間を感じる感覚は、人それぞれです。
無心の状態で違うのです。
細胞から、心の底から自主的に、やりたい事をやっている時は、時間は短く感じ、しかも旅行などに行って、時間が止まった様な感じがする時。。
あの瞬間、時間が止まっている様に感じるのは、意識が止まっているからです。
意識が時間を作ります。意識が止まれば時間はなくなるのです。
寝てる時がそうでしょ? 10分ぐらいしか寝てない感じで、8時間寝てたりする。
つまり、無心になってるんです。
人間は、意識が止まり、無心でいる時。それは言い換えれば、目的、目標を忘れた瞬間とも言えるでしょう。。
今から3時間勉強しようと、目標を持って始めた3時間は長くて、何回も時計を見てしまいます。まだ1時間かあー😮💨。
心の底からやりたい事ではなくて、やらねばならない。。という受け身的な心の状態、意識的状態は、時間を産みます。
しかし、成績を上げる為の勉強として始めた勉強が、勉強そのものが楽しい。。と、感じ始めた時、時間を忘れ、目的を忘れます。
私達人間の、最も集中している状態とは。。。この様に、目的や目標を忘れ、勉強そのものを楽しんでいる時です。。
バイク乗りの人🛵は、どこかに行く為とか、美味しいものを食べに行く為よりも、バイクに乗ってる時間そのものが楽しいんです。
それは、心が今に在り、いい集中状態です。
だから、意識(目標、目的、時間)が消えて時間が消える。
その時、とても時間がゆったり流れる感じがするが、気がつくと結構時間経ってて、あーもう帰る時間だ😮💨。。となる。。
何かの為。。と思えば、心は今ではなく、3時間後に向く。。
将来の事を思えば、興奮と不安が生まれる。。
あの高校に受かりたい。。と、目標を持てば、期待という興奮、高揚と共に、落ちたらどうしよう。。という不安が生まれる。。
何かの為とは、テストの成績が上がる為、受験に合格する為など、ずいぶん先の出来事に意識が向くのです。
そこに時間が発生します。。
今から受験までの時間が生まれるのです。
この状態は、嫌いなバイトを、今から4時間やる。。というのと同じです。
心は今を離れて、4時間後のバイト終了時に意識が向きます。
その時間は長く辛い時間です。
その時間の中に不安が生まれるのです。
長々と説明しましたが、私達は3歳ぐらいまでは、何かの為に生きるという意識がありません。。だからいつも今に集中しているのです。
そこに、目標を持つ事による不安は生まれないはずです。
大人になるに連れ、目標や夢を持って、そこに向かう努力をして、達成する事が偉いんだ。。という教育を受け、何かの為。。という大義名分が無いと動けなくなる。。
目標が無いと生きられない。
それでも多感な時期になると、僕もそうだったが、急に我に帰り、「俺は何の為にこんな事してるんだろ。。」から始まり、多感な子は、何故人は生まれて、何故生きていくんだ?
と、全てを疑いだす。
僕も高校一年の時、この蟻地獄が始まり、鬱になってしまった。。
この答えが出たのが10年後。。
仏教の経典から学んだんです。。
「人は、生まれながらに生かされているのであって、何かの為に生きているのではない。。
何かの為。。という時間軸に囚われるから、将来の事や、過去の失敗に囚われ、今を不自由にしている。。
そして、因果応報、因縁因果の法則。。という時間軸の法則。。意識の世界の法則に囚われ、
あーしたからこうなったのだ。だからこうすればこうなる。。という罪と罰の法則の囚われ、その囚われを利用して、自分を責め、人を責め、脅し、宗教団体や占い師、霊能者が荒稼ぎする。。」
今を生き切る事ができれば、因果応報が消える。。これが仏教の奥義です。
それは時間を超えるという事。
悩み苦しみとは全て、過去と未来という時間軸への囚われから生まれているんです。
この奥義を理解してしまうと、宗教団体は無用だという事になるのでわざと気づかない。。気づかせない。
本当は、因縁因果は超える事ができる。。それが解脱です。
私達は、赤ちゃんや動物の様に、今が楽しいから、今が気持ちいいから、学びたいんだ。。走りたいんだ、歩きたいんだ。。という基本。。無心に戻る事なんです。
何かの為に生きるという概念は、実は本心の声ではなくて、こうしなければ自分は立ち行かないから、やらねばならない。。という受け身の意識なんです。
その心も必要です。でもその心に飲まれてはいけないのです。
酒は飲んでも飲まれるな。。です。
本当はやりたくないから、何かの為だからしょうがないと、自分に鞭打ってるんです。
それが何かの為に生きるということ。。
本当に好きな事に、為はいりません。バイクに乗るだけで楽しいんですから。。為は将来の事。。今が抜けています。
それを、老子さんが無為にして為せ。。無為自然というのです。
親鸞さんが、自然法爾に生きよう。。というのです。
神道でも惟神に。。と言います。
人は何かの為に生きる様に設計されていないよ。。今、魂から湧き上がるままに生きれば、調和した世界が最初からあるんですよ?というのです。
何かの為にしか生きられない自分を、手放して行くこと。
すると、今を生き切る自分だけが残る。。
整体師の僕が、何故こんな奥深い事をブログに書くの?
それは、高校生だった僕が、この答えを得るのに10年かかったから。。
きっと、10代、20代の若者でも、この答えに触れて、これだ!と思う子がいると思うから。。