私達は、人との比較の中で知らず知らず生きています。
人によく思われたい。
人より優れてると思われたい。
尊敬されたい。
ダメなやつだと思われたくない。。
という、自分が本当はどうしたいのか?より、人にどう評価されたいか?
人にどう評価されなければならないか?
人にどう評価される人間でなければならないか?
人に評価される為にはどう生きたらいいのか?を知らず知らず考え、その生き方を模索する毎日です。。
それは自分目線ではなく、常に他人目線です。
つまり、他人目線で本当の自分目線を常に抑圧しているのです。
抑圧された感情は1番の毒です。
それを外に出そうとする排泄反応が、症状であり、過呼吸や鬱なのです。
しかし、それは、自分を、あるがままの自分以上に意味のある何者かに変身し続けていかなければ、評価され続ける事ができず。世の中の評価基準から振り落とされてしまう。。
という恐怖観念に追われる様に生きています。。
実は怖くてしょうがないのです。
不安なんです。
特に、子供の頃から優秀な子だと言われてきた人程、その位置から落ちる事を異常に怖がっています。。
その不安を振り払う様に、頑張り続けるのです。
当院にも、物凄い頑張り屋さんがきます。。。エリートですし、優秀な人です。。
でも、本当はどうしたいのかわからない状態。。
本当の自分を知らないんです。
「本当のあなたは、そんなに頑張って、常に第一線で活躍したいとは思っていませんよ!」
それでも、優秀な人は、その生き方しか知らないし、その生き方で優秀な評価を得続けてきているので、僕の声に耳を傾けません。。
こういう方は、一度強制的に、脱落する必要があるし、神様はそういう体験を与えてきます。
自分の努力ではどうしようもない脱落を経験した時、初めて評価されず後ろ指刺される人達の気持ちが理解できる。。
そして、自分の意味ある生き方、意味ある人間を追求してきた自分には無理があった。
人生の片面しか見えていなかった。。
狭い視野で生きていたなあ。。と、我に帰るのです。
脱落した自分、評価されない自分を受け入れざる終えない状況で、受け入れた時、はっと気づくのです。
本当の僕は、ここに在った。。と。
意味ある生き方、意味ある人間にならなければ、人に評価されないから。。と。
意味ある生き方とは何か?意味ある人間とは何か?
ばかり考えて生きてきた。。
しかし、それは、裸の自分。。あるがままの自分に、無理矢理ブランドの服を着せたり、ベンツに乗ったりする行為だ。
ブランドの服を着てる自分。。ベンツに乗ってる自分が意味ある自分だとするならば、それは実に不自然な考え方だ。。
むしろ、本当の自分で生きていく事、あるがままで生きていく事とは、他人目線を捨て、自分目線で、身につけてきた鎧の様な意味付けを、手放していく。。
もう一度裸に戻っていく事。。服を脱いで、ベンツをカローラに変える事。
その時、意味のある自分は消えるが、ただ在る尊い自分が現れてくる。。
なんだこれでいいんじゃないか。。楽じゃないか。。気持ちいいじゃないか。。
それは一つの悟りです。
その時、他人目線に抑圧された本当の自分の魂の欲求で生きられる様になる。
今までの様な評価はされなくなったが、実に気持ちいいし、今までと違う人が、今のあるがままの自分を好きになってくれたり、評価してくれたりする。。
そうか、自分に意味をつけなくていいんだ。。
その時大きく発散するのです。。
現代人は発散が下手です。
発散できないから気が詰まって、それを抜こうとして症状が出るのです。
ならば発散上手になればいい。。
それは、自分の無意味化です。
意味ある生き方、意味ある自分を追求する事はイコール、世の中の基準で評価される為の生き方の追求です。
それは本当の心を抑圧し続ける生き方です。
それをやめていく事。。
「私、この程度のものでございますが、愉快に暮らしております。」
どうぞ宜しく。。でいいのです。
無理に自分を自分以上の超人に仕立てようとする行為。。
それが実は自分の魂を抑圧して、萎縮させていることに気づく事です。
あるがままに、手を伸ばして空気を大きく吸えば、自分の呼吸は地球全体🌏に拡がるのです。