通常、果報は寝て待ての意味は、下の注釈ですね。。
幸運というものは、人の力ではどうすることもできない。 だから、あせってあれこれ動き回るより、静かに時期を待つのがよい、という意。
もう少し、掘り下げてみよう。。
仏教には因果の道理というのがあります。。
もっと詳しく言えば、因縁果の法則です。
キリスト教や、イスラム教が、人の運命は神が決める。。人間に自由意志なし。。
であるのに違い、仏教では、法則は神が決めているが、その法則下でどう生きるか?の自由意志は、人間にあり、それが因縁果の法則で輪廻転生すると説明されるのです。
つまり因とは、行い。。身口意の行いです。
過去世での行いという意味が一般的です。
身体の行い、口の行い、心の行いが、因となり、つまり種まきとなって、その種まきに縁。。という出会い、環境があって果報。。運命が決まるのです。
それがは、野球が⚾️上手くなりたくて、毎日努力しているのに、レギュラーになれない。。
努力は報われないのか? と、やる気がなくなる。。
しかし、そんな時、自分の良さを引き出してくれるコーチと出会う。。
それで開花した。。そういうケースがありますよね?
イチローだって、ドラフト4位ぐらいで、あまり期待されない状態で入団。。バッティングコーチに才能を引き出され、開花したのです。
ここで言いたい事は、縁がなければ開花しないという事。。
畑に種を撒いただけでは、なかなか花が咲いて来ない。。
うちの母ちゃんに、花🌸の種をたくさん買ってやったんだけど。。
母ちゃんは、経験的に、「種から育てても、なかなか上手く咲かないから、苗を買って来て。。」
しかし、何故、種は花を咲かせる力があるのに、花が咲かないのか?と言えば、土、陽射し、水やりなど、縁が整っていないからです。
縁がなけりゃ開花しません。。
縁とは運命ですから、慌てず運命を待つ他ないのです。
それが、果報は寝て待ての意味です。
自分の思い通りにはならないよ。。そういう法則じゃないから。。
という事です。
因果の法則に囚われて、良い事をしたんだから良い事が起きるだろう。。
と、妙に期待したり、
悪い事をしたから、きっとバチが当たるだろう。。と、妙に恐れたりするのも、因縁果の法則の解釈を間違えています。。
良い事とは何か? 悪い事とは何か?
誰が完全に答えられるでしょうか?
良い事をした。。と、自分勝手に思っていても、仏法的には間違えていたり、悪い事をした。。と、思っていても、それは仏法的には、的を得た行為だったかもしれないのです。
因果の道理の法則とは、自分勝手な善を行う事で、良い事が起きる事を期待して生きる事でも。。悪い事をしたからと、悪戯に、きっとバチが当たるんだ。。と、恐れるものでも無いのです。
多くの新興宗教がここで間違えています。。
先ほど申し上げたように、法則は神が決めたのですが、その法則下でどう生きるかは、人間の選択なんです。
神は、行いに対して、ご褒美も罰も与えるポジションでは無いのです。
自分で自分に、因縁果の法則内で、自分に褒美をあげたり、罰を与えているのです。
飴と鞭を自分に化しながら、飴も鞭も要らない世界へと、昇華していく道です。
そこに至るまで、飴と鞭が必要なだけです。
私達人間が、自転車で転びながら、乗れるようになっていく事。。
そしていずれ神の元に自転車で辿り着くであろうと、目を細くして眺めているのです。。
待っているのです。。それが神仏の慈悲の心。。
私達は、因縁果の法則の中で、良い自転車の乗り方をしたつもりが転んでしまった。。
何が間違えていたのか?フィードバックする為の因縁果の法則です。
悪い乗り方をしたつもりだったが、上手く転ばずに乗れた。。
あれ、これでよかったのか? あーこれで良いのか!
そういう、自分のやった事を縁に触れて、自分の運命として確認する。。
それは、後でビデオで、自分の乗り方を確認して反省する様な事。。
それが因縁果の本当の法則の意味。。
お釈迦さんは、因縁果の法則を、違えて物事が起きる事は無い。。と、断言しています。。
言い換えれば、良い事が起きる事を期待して善をしなくても、魂に正直に生きた。。という種まきは、必ず果報となる。。しかしそれは、期待したものとは限らない。。
何が善の行いかわからないように、何が良い果報かもわからないからです。
分からないだけで、気づいていないだけで、必ず種を蒔けば、果報は既に訪れているよ。。
だから心配せず、今を生き切るだけで良い。
種を蒔き続ければ良い。。そういう事です。
これは、撒いた種は、縁に触れれば。必ず果報となり現れる。。
それを良いことを求めたり、悪い事を拒否したり区別したりせず。。
自分の蒔いた種は仏法に沿っていたのかいなかったのか、確認して修正していく道です。
野球選手が、三振した後、バックスクリーンの録画映像を確認して反省してるでしょ?
あれが果報、運命というバックスクリーンの録画映像です。
だから、良い事が起きる事を期待して良い事をするのでもなく、悪い事をしたから運命がおかしいいんだ。。と、嘆く必要もない。。ただ、自分が正しいと思う行いを、淡々と行い続ける。。種を撒き続けるだけ。。そうすれば良いだけなんです。
良い事を期待して良い事をしていると、努力が報われないとやる気なくなるでしょう?
そうじゃないんです。
果報は寝て待て。。とは、自分の行いの、仏の通知表を待ちなさい。。
受け取ったなら、何が良くて何が良くないのか。。反省して修正しなさい。。
それを繰り返しすれば、どんどん仏道に乗れる様になります。。
転ばなくなります。。
大船🚢乗った気分になります。。
その大船の上では、もう、因縁果の法則は無用です。