心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

心が歪むと顔、身体も歪む

下の絵を見て欲しい。。。

アニメーターが、怒っている表情を表現しようとすると。。

左右非対称に歪ませた方が、怒っている様に見えると。。書いてあります。。

 

実際、私達が怒る💢時とは、心の平衡性を失い、心のバランスが崩れた時、それを戻そうとする邪気エネルギー発散の姿です。。

 

大声で怒鳴り散らしたあと、スッキリする。。なんであんなに怒ってしまったんだろ〜?

と、我に返り、反省を始めます。。

そこに怒る意味があります。。怒りも必要です。

怒らない様にしてると、エネルギーがこもり、気が病む。

 

逆に泣いている絵を描こうとすれば、左右対称にした方が、泣いてる様に見えます。。

泣くという行為も、歪んだエネルギー。。怒りを発散し、左右平衡性を取り戻すメソッドなのです。

心の平衡性が安定している人は、顔も身体も平衡性を保っています。。

 

吉永小百合さんは、顔の左右対称性が高い。。と、担当のメイクの人が言っていたそうです。。

私達があの人は綺麗だと思う人は、顔の左右対称性から、心の対称性も見ていると言えるのです。

当院に来るお客さんを見ても、顔や身体が歪んでいる人は、心の平衡性も歪んでいるんです。。

でも、ここで言う、歪んでいるとは。。ありのままではない。。という意味で、悪人であるとか、性格が悪いと言う意味ではありません。。

ありのままに自分を表現できる人は歪みにくいのです。。自分に嘘をついていないからです。偽善でなく、偽悪でもない。。という事。

偏りがないんです。

 

例えば風天の寅さんの様にね。。

善人、悪人を超えて、あるがままに生きる事。。

偏りがない。。イコール🟰囚われが無いんです。

それがもっとも心が安定しているのです。。

 

①自分は正しい、あいつだけが悪い👎。。

その怒り💢方は、顔を歪めるでしょ?

首も歪める。。首が詰まる感じがする。。

 

②では、私が悪いんだ。。私さえ我慢すれば良い、。

これも同様です、。顔が歪み、喉が歪み、喉が詰まる。。

 

では、どういう心で怒ればいいのでしょうか?

それは、昔、喧嘩両成敗。。と言う言葉がありましたよね?

 

喧嘩をしてる以上、どちらにも問題があるから衝突💥してるんです。。実はね。。

どちらが正しいんだ?という考え方は、どちらにしても善と悪という区別を産み、善と悪は戦争を起こします。。

ロシア🇷🇺だって建前上ロシアが正しいという前提でやってるし、ウクライナも、当然正義の戦争です。。

イスラエルだって、🇮🇱自分達は正義だという前提で戦争をしている、人殺しをしてるわけです。。

 

この様に、正義は悪を懲らしめて良い。。という戦争は、善と悪の戦争です。

ここで皆さんに知って欲しい事は、善と悪を区別すればするほど、善と悪の戦争が起きやすいという事です。

 

争いとは善悪の区別で起きているのです。

だからキリスト教、ユダヤ教、イスラム教では、戦争が絶えないんです。。

善悪区別するから。。

 

では、戦争をしてるのは、どちらも悪いから起きてるんだ。。と、いう考え方が双方の根底にあれば、戦争は終わりやすいはずです。

いや俺は悪くないよ。。。こう思えば思うほど、正義と悪の区別は無くならない。。

つまり、戦争を終わらす事ができません。。

喧嘩とは、どちらも悪いから、どちらも反省しないとね。。

という気持ちを根底に、喧嘩で業をぶつけ合いながら、双方の落とし所を見つける。。

息の合う場所を見つけるという事でしょう。。

引き分け。。で良いんです。。

 

むしろ引き分けに持ち込めた人の勝ちです。

男の子はその辺上手な所があって、お互い嫌いで喧嘩を始めたのに。。途中で引き分けにして仲良くなる場合があります。。

 

高校1年の時、違うクラスのキクオくんが嫌いで嫌いで、電車の中で口喧嘩に。。

それ以来会うたび口喧嘩。。。

でもね。。口喧嘩してるうちに、お互いが意地張りあって、1年間不仲が続く。。でも、お互い、本当はこいついいやつだなー。。と、思い始めていたんです。。

 

それで、僕は、高校2年の時、こちらから、「もう仲良くならないか?」と、声をかけたんです。。結構勇気いりましたよ。。

俺から売った喧嘩でしたから。。

 

そしたらキクオくんは、「あっ🤭分かってくれた?良いよ🙆。。仲良くしようよ!」

と、それから2年3年と、大の仲良しになりました。。

どちらが善で、どちらが悪か?という喧嘩はキリがないのです。。

それより、お互い悪だから、悪同士仲直りして、2人で、もう少しまともな人間になろうよ!

そんな感じで和解できれば、それが一番平和ですね。。

 

話が外れましたが、何が言いたいか?というと、自分が正しいあいつが間違えてるとか。。

逆に俺が悪いんだ俺さえ我慢して、俺さえ治せば、。

そういう善悪区別する感情が、心を歪ませ、体を歪ませるという事。。

区別がダメです🙅。

 

仏教感でいうと。。

善も悪も、優秀も、優秀じゃないも、五十歩百歩だよ。。

目くそ鼻くそだよ。。

阿弥陀様から見れば、、どうしようもないが可愛い息子達、娘達でしかないよ。。

どうしようもない私達が、協力して、立派になって行けばいいじゃない。。

善悪区別しなさんな。、区別は争いを産むから。。

 

差異即平等。。違いはそのままに平等である。。

五十歩百歩の善悪など。。多少の違いに過ぎない。。。

そこに執着するんじゃなくて、平等の命。。同じ命、信心を頂いている方を観る事です。

 

親鸞さんが、師匠の法然さんと自分は、同じ信心を頂いている事を自覚できた、、とても嬉しい。。と、言った所。。他の法然さんのお弟子さん達から、法然さんと同じ信心を獲得したとは、おこがましい。。お前如きが法然さんと同じ信心であるはずがないではないか?

 

でも、法然さんは、いや、私の信心と、親鸞の信心は同じものである。。お前たちの信心も、私と同じものである。。と、言ったんです。。

どういう事かわかりますか?

 

これも、枝葉的な能力の違いを見るんじゃなくて、同じ命、信心を頂いている、同じ呼吸体、命である方を見なさいという事です。

死ねば皆仏。。それを感じて見なさいという事です。

同じ命に、善悪区別などないのです。

お前は悪だ。。というのは、俺は悪だ。。と言っているのと同じ。。