心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

仏教解釈21 仏陀とイエス


現在において、仏教とキリスト教は、全く違う物となっています。。

しかし、僕は、お釈迦さんの説いた事と、イエスキリストの説いた事は同じ。。

だと考えています。。

 

それを解釈したのが、東洋人であったか、西洋人であったかの違いで、東洋医学と西洋医学が全く違う。。西洋栄養学と、漢方医学の考え方が全く違う、、

そうなってしまっているのです。。

 

ただ、キリスト教でも、奇跡のコース。。という本は、仏教に非常に近い解釈をされていますし、エックハルトトール。。という作家の本を読んでも。。イエスキリストと、お釈迦さんは.同じ事を説いたんだと感じます。。

 

お釈迦さんも、イエスキリストも、一番説きたかった事は、私達は、自分で生きているのではなくて、ちゃんと神仏によって生かされている命である。。という事です。。

神道でも、仏教でも、キリスト教でも。。老子さんでも。。

皆、一番言いたいのはそこです。。

 

だから.肉体肉体頭脳智で、あーしなきゃ大変だ。、こうしなきゃ大変だと、起きてもいない将来を不安し、怯え、その怯えを誤魔化す為に、人から富を横取りして溜め込む。。

それで安心😮‍💨?かと思いきや、今度は、溜め込んだ物は、今度は自分が横取りされるんではないか?と、怯え、核爆弾を配備する。。

 

そんな、肉体次元の計らいはやめなさい。。と。。

 

そこで、今回は、イエスキリストが、信者に説いた。。と言われる文章を見てみよう。。

イエスキリストは、生かされている命である事を忘れ、自分で生きているんだ。。と、興奮し🤩。。あーでもない、こーでもない..あーしなきゃ、こうしなきゃ。。と、思い煩らうな。。というのです。。

 

そして、空を飛ぶカラス🐦‍⬛を見よ。。と。

神に生かされて、食べ物も頂いて生きておるではないか?

人間にも嫌われて、飯を貰う事もできない。。そんなカラスでさえ、生きて子孫を残しているではないかと

余計な計らいをせずとも、私達は生かされています。。だから生かされいるがままに生きておれば良いのです。。

それが、与えられた真の命。。自然。。幸福なのです。。と。。

 

生かされていないと、思うから、足りない気がして、横取りをする。。争いが起きる。。

でも生かされいると解れば、実は足りているのです。。

足りている世界が展開するのです。。

 

足りている事を知れば、横取りは無くなり、縦取りの命。。永遠♾️の命となるのです。。

縦取りの世界に、争いが起きるはずもないのです。。

横取りして手に入る物は、真の幸福ではないのです。。

現れては消える物です。。諸行無常な幸福を、追いかけなさんな。。

真の幸福は、横取りせずとも与えられているのです。。

それに気づかないだけです。。

気づかないから、、無い、。足りないと思うです。。

展開しないのです。

あると気づけば展開するのです。。

自覚が大事。。悟りとは覚です。。自覚です、

 

それを、カラス🐦‍⬛を見ろ。。という語り口で、説法した記録があるんです。。

興味のある人は見てみよう

 

引用。。。。。。

 

この説教がどこで語られたか書いてありませんが、内容から見て、大空の下の野原であると考えられます。語られた対象は「弟子たちに言われた」とあるように、イエスの生き方に従っている弟子たち、すなわち信者に向かってです。


 「命のことで何を食べようか、身体のことで何を着ようかと思い煩うな」(22節)


現代人の多くの人々は、心の中に理由がはっきりしない不安をかかえています。

現代は将来に対して希望を持ちにくい時代になっています。

「私の将来はどうなるのだろうか」「私は何をして生きていくのか」不安や心配が生まれます。

イエスの周りにいたガリラヤ地方の人々は、主として土地を持たない貧しい小作の農民でした。

何を食べようか何を着ようかと日々思い悩んでいる人々でした。

 

イエスはそのような弱い立場の人々に寄り添って生きていました。

さまざまな不安をかかえている人々にイエスは。。

「何を食べようか。何を着ようか思い煩うな」。。

と声を掛けました。

「思い煩う」という言葉は、元来は「配慮する」「ケアする」という意味に由来する言葉でした。

食べることと、着ることという日常生活への配慮とケアが高じてくると、不安や心配や悩みが度を越して、若い草木の芽が雑草で覆われるように、心がふさがって「思い煩う」ようになるのです。

イエスは思い煩っている人の心を、まったく違った方向に転換させます。

第一に、食べ物や衣服に注がれていた心を、それらよりもっと本質的な「命」と「体」に目を向けさせます。

根本的なことに目を向ける点にイエスの特徴が見られます。


 「命は食べ物よりも大切であり。体は衣服よりも大切ではないか」(23節)


と誰にでも分かる理由を疑問形(オリジナル版マタイ6:26)で問いかけます。
 
第二に、「食べ物」よりも「命の方が大切」という理由を説明するために、大自然の中で私たちが生かされていることを教えるために、大自然の営みの中で天空を飛ぶ小動物に目を転じさせます。


 「カラスのことを考えてみなさい」(24節a)


しかし、ここでもイエスは「空の鳥」の中でも、美しい鳥を挙げるのではなく、人間から好まれず忌み嫌われがちな「カラス」を例に挙げます。

マタイは「カラス」に抵抗があったのか「空の鳥」に変え、美しい詩的なイメージに変えていますが、それはイエスの本来の狙いとは外れます。


 「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養って下さる」(24節b)


ここで「カラス」はガリラヤの泥にまみれて土地を耕す農夫の仕事と比較されています。

カラスは「種も蒔かず、刈り入れもせず、)納屋も倉も持たない」。

だが、忌み嫌われる存在であるカラスでさえも「神が養ってくださる」のです。


 「あなたがたは鳥よりもどれほど価値があることか」(24節c)


小動物のなかでも忌み嫌われる小さな存在の「カラス」と「神の似姿」である人間と比較して、神が「カラス」を養ってくださるなら、まして「人間」を配慮し、ケアしてくださると修辞疑問を用いて確信させます。

 

引用終わり。。。

 

僕は、現在の日本では、キリスト教団体と言えば、統一協会や、エホバの証人ということになってしまうが。。僕に言わせれば、そこにイエスキリストの真意は、反映しておりません。

 

残念な事ですが。。これも仏教で言えば、必要悪であり、世の中にそういう邪教が存在する事で。。本当は?どうなんだ? これが本当に、イエスキリストの真意なのか?

という疑問が湧くのです。

 

イエスキリストは、お釈迦さんと同じことを説いたはずなのです。。

もし、現在、キリスト教団体に所属している人。。

是非、イエスキリストの真意を知ってください。。

 

奇跡のコースという本でも良いですし、エックハルトトールの本もいいですね。。

また..僕のブログに書かれている仏教解釈を、イエスキリストの真意だと思ってもらえても良いと思うのです。