心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

自分の為に生きる。。老荘思想

多くの方が、小さい頃から、人に為に生きるのが善で、自分の為に生きるのが悪。。と、教えられてきているはずです。。またその思考に囚われています。

 

目に見えている世界だけが全てであるならそれでいいでしょう。。

しかし、目に見えてる世界。。意識できる世界は氷山の一角。。

 

私達は、目に見えない世界によって生かされている。。相対世界ではなくて、絶対世界の法則によって生かされている。。

そして、目に見えない世界では、海の中では、繋がっていて、手を繋いでいて、人類、大自然、宇宙も繋がっていて、一つの存在です。。

 

そこには、本当は、人の為も。自分の為もないし、私達が思う、善や悪もない。。

自分という一雫の水は、大海に入れば、大海の一部であり、大海は自分であり、自分は大海なのです。。

 

さて、目に見える世界に囚われ、他人の為に生きる事が善。。だという勘違いは、何を生むか?

 

①人の為に、と意識した時には、人の為にやってやってる。。という思考が必ず含まれます。。だから、感謝される事、評価される事。。いい人だという評判を流されたい事。。

そういう期待を求める心が必ずある。。

よく、してあげた事の見返りを求めるな。しかし、して頂いた事を忘れるな。。というが、

これなんかは、いかに人間は、人の為にした事に対して見返りを求めているかを示す言葉です。

だから、感謝してくれる人、評価してくれる人に対しては、一生懸命にやれるが、評価してくれない人、ありがとうと言ってくれない人には、手を抜く。。または相手にしない。。

つまり付き合う人間を限定する。。差別する。。グループができる。。派閥ができる。

または、人が見ている時には、一生懸命やるが、人が見ていない時には手を抜く。。

結果、自分の人間としての成長も妨げる。。偽善になる。。

 

②人の為にと、親切心でやってることが、おせっかいであったり、その人の人間としての成長を妨げる場合がある。。例えば、介護の世界でも、最近は、出来るだけ自分でやれる様にする事をメインにしているのだとか?

何でもかんでも、手を差し伸べてやる事が、親切とは限らない。。

期待に応えてやる事が善とは限らない。。

 

③ 自分が磨かれていない人には、他人を磨くことはできない。。

誰かが笑えば、周りも笑う、、誰かがあくびすれば、周りも欠伸する。。

この様に、私たちは、繋がっていて、元気なひとがいれば、元気になるし、イライラした人がいれば、イライラしてくる。。

自分がどうあるかによって、周りの人達にも影響を与える。

 

自分の為に生きるとは、自分の事と、他人の事を分ける事なく、全て自分の事として当たる、向き合うという事です。。

結局、自分の勉強なんです全てが。。人の為に。。と言った時点で、自分の修行である事を放棄し、他人事に向かい合う事になる。。これは一つの逃避なんです。。エゴでもある。。

自分はもう充分だから、手を差し伸べてあげます。。みたいな。。

これを親鸞さんは、自分は充分だと思いあがっている者ほど、反省が無く、仏から遠い。。というのです。

 

例えば、整体も、お客さんの為にやてるんじゃなくて、自分の事、自分の勉強として当たっているんです。

だから、一期一会だし、手を抜く事が、自分の為にならないから、誰に対しても、同様に手を抜かず当たれる。。自分の為にやってるから。。

それが、お客さんにしたら、私の為に、こんなに一生懸命やってくてる。。と感動してくれる。。気持ちよく帰って頂ける。。

こんなに一生懸命やってくれる整体は、初めてだと、よく言われます。。

それは、私が自分の為にやってるから。。自分を大切にしてるからです。。

自分を大切に生きると、他人も大切にされてる気がするのです。

また、自分を大切にしてる人は、他人も大切にするのです。。

しかし、もし僕が、お客さんの為に整体をやっていたら、手を抜くでしょうね!

相手によって手を抜くでしょうね。

 

それは自分のためにも、お客さんの為にもならない。。

大切な事は、常に自分のこととして、自分のために向き合う。。自分を磨いていく事。。

そうすれば、磨かれた人の、周りにいる人も、自然と磨かれていくのです。。

自分が磨かれていない人に、どんなに親切にされても、期待に応えてくれたありがたさはあるが、人間が磨かれていく事はない。。

それは。長い目で見れば、おせっかいでもある。。

人の為。。という  思考は、実は、人の為に生きているいい人を演じ、評価を求める行為でもある。。

だから、あいだみつおも、人の為と書いて、偽りと読むんだよなあ。。というのです。