海で泳ぐ魚の群れが、。同時に向きを変え、衝突しない様を見て、。若かりし僕は、ハッとしたのです。。
鳥の群れもそうです。。
明らかに、一体感で動いている。。
シンクロナイズドスイミングの様に、合わせようとして合わせているのではない。。
一体な物が向きを変えるのだから、見なくても、感じ合っている訳です。。
生かされてるがまま生きる。。とは、そう言う事です。。
生かされてるがまま生きると、衝突がないのです。。
生かされるがまま。。とは無心だと言う事です。。
私は、こんな体験があります。
整体修行中、講師の人に喫茶店に誘われ、2人でコーヒーを飲んでいたのです。。
すると、コーヒーに手を伸ばし、コーヒーカップに口をつけるタイミングが、一緒だったのです。
最初は、偶然だと思ったのですが、3回か、4回同じ事が続き、これは偶然ではない。。と、
講師の人に、聴いたんです。
「さっきからタイミングが。ピッタリなんですけど。。なんでなんでしょう?」
講師は言いました。。
「これは。君と僕との気の相性が良すぎて、一体感が、ここでできちゃってるんだよ。。
君は僕で、僕は君なんだ。そういう事です」
ほー。。これは、以前僕が、魚の群れがぶつからない事に、感動した事と、同じ事が起きてるんだなあ。。
人間は、意識的な生き物です。。
しかし、土台は、無意識なんです。。無意識の上に、意識が乗っかってるんです。
そして、無意識の領域では、一体で、衝突してないんです。。
とても気の合う人とは、意識的な領域より深い。。無意識領域で繋がるから。
こういう行動共鳴みたいな事が起こる。。
しかし、あまり気の合わない人とは、意識的な領域で、つながる為、衝突が起きる。。
つまり、私たちが、理想とする平和とは、各々が。無心になる事さえできれば、即成立するわけです。
平和の為に。。と、方向性をつければ、宗教戦争が起きます。
本当の宗教には、為が要らないのです。だから繋がるのですから。。
意識的な領域には、方向性ができます。
方向性と方向性は、どこかでぶつかるのです。。道と道がどこかで交差するのと同様です。
意識的に生きるとは何かの為に生きる事です。
そこに方向性ができます。
ぶつからない。。それは方向性が無いという事。。
方向性が無い事イコール自由自在です。
何かの為が無い、。無為にして為せ。。老子の言葉です。
方向性が無いのです。
方向性が無いからこそ、どちらへでも行けるのです。
筋トレにも方向性があります。筋トレは、同じ方向にしか鍛えられない。。
その方向には強いが、他の方向には弱い。。
意識的に鍛える弱さがここにあるんです。
生き方も同じ。。
意識的に、自分を時代の評価に寄せる。
という方向性をつけて努力し、頑張る。
これも筋トレと同じです。
鍛えた方向には強いが、それ以外の方向に弱い。
逆境に弱いのです。
八方塞がりと言いますが、八方塞がりとは、筋トレの様に、意識的な領域で、方向性をつけてしまう事で、その方向以外が見えなくなってしまう事なのです。
意識的に鍛えていない人には、見えているのです。
鍛えてしまった人には見えないのです。。
つまり自分で見えなくしてるんです。
だから、自分を鍛えるな。。鍛えると弱くなる。。と言うのです。。
武術の世界でもよく言われますね。。
本当の強さを知りたければ、一度、思いっきり弱くなれ。。
方向性のある強さは、実は弱い。
という事。。
方向性のない強さが、真の強さ。。
その強さは、いつも言う様に、予期せぬ出来事に、即対応できる心、体にしていく事。。
これは言い換えれば、方向性のついた強さを捨てるという事。
先程の武術の話と同じです。
身につけた強さを一度捨てなさい。
という事です。。そうすると、本当の強さが解る。。